絡まる残り香―滴る甘い蜜―
第四章 : 禁断のハプバー

【第一話】: 日常の皮を剥ぐ 1

​「ほら、理央。牛乳残さないで。遅刻しちゃうわよ」

​幕張のマンションに差し込む爽やかな朝の光。

ひとみは手際よく朝食の皿を片付けながら、娘の背中を優しく叩いた。

「はーい。行ってきまーす!」

ランドセルを揺らして元気に飛び出していく娘。

その無垢な後ろ姿を見送る時、ひとみの胸の奥には、鋭いナイフでなぞられたような痛みが走る。

​「……僕も行くよ。今日は会議があるんだ」

​食卓に座っていた夫・誠司が、感情の起伏がない声で言った。

彼はひとみと目を合わせることもなく、空になったコーヒーカップを置くと、事務的な「行ってきます」を一言残して玄関を出た。

そこに、夫婦としての温もりなど微塵もない。

ひとみにとっての「家庭」は、もはや義務と体裁だけで塗り固められた、息の詰まるような箱庭だった。

​(私は、何をしているんだろう……)

​ひとみも急いで自分の身支度を整えた。

鏡の前で、パールのネックレスを直し、レディーススーツの襟を正す。

清潔感のある、完璧な「母」であり「妻」の姿。

しかし、そのスーツの奥に隠された肌には、いまだにあの男たちの、そして佐藤の執着がこびりついているような気がしてならない。

​病院での仕事は、いつも通り淡々と過ぎていった。

受付カウンターで笑顔を絶やさず、患者の対応をこなし、昼休みには同僚たちとランチを囲む。

「ひとみさんのところ、旦那さんもエリートだし、娘さんも可愛くて羨ましいわ」

同僚の無邪気な言葉に、「そんなことないわよ」と微笑みで返す。

その顔の裏で、ひとみは昨日、佐藤に指で蹂躙された感覚を、そして電車であの男に「抱いて」と囁いた自分の声を、呪いのように反芻していた。

​夕方、退勤のチャイムが鳴る。

「お疲れ様でした」

同僚たちに別れを告げ、病院の自動ドアを抜けた瞬間、ひとみの足取りは自宅のある幕張とは逆の方向へと向かっていた。

​御茶ノ水駅のホーム。

総武線の黄色の車体に乗り、秋葉原駅でふらっと山手線に乗り換える。

夕闇に包まれ始めた上野駅の不忍口を出ると、そこには昼間の幕張にはない、湿った欲望の匂いが漂っていた。

​(帰らなきゃ。……今ならまだ、引き返せる)
​頭ではそう分かっている。

だが、一度暴かれた本能は、レディーススーツという理性の鎧を内側から食い破ろうとしていた。

ひとみは、吸い寄せられるように猥雑な雑居ビルが立ち並ぶ路地裏へと足を踏み入れた。

​ネオンが不規則に明滅する、看板のない重厚な扉。

昨日、あの男に指定された場所。

ひとみは震える手で、その扉の取っ手に手をかけた――。
< 34 / 79 >

この作品をシェア

pagetop