絡まる残り香―滴る甘い蜜―
​第五章:瓦解する日常

【第一話】: 瓦解する日常 1

​「理央、ハンカチ持った? 車に気をつけてね」

​幕張のマンションに差し込む朝光は、残酷なほどに白く、清潔だった。

娘を送り出すひとみの声は、どこまでも慈愛に満ちた「聖母」そのものだ。

しかし、玄関のドアが閉まった瞬間、その微笑みは仮面が剥がれ落ちるように消え失せた。
 
​タイトスカートの中で、一歩歩くたびに太腿の間に違和感が走る。

昨夜、上野の闇で数十人の男たちから注ぎ込まれた「熱」が、まだ身体の奥底に濁って滞留しているのだ。

​「……おい、聞いてるのか。最近、帰りが遅いんじゃないかって言ってるんだ」

​食卓で新聞を広げたまま、夫の誠司が苛立ちを隠さずに吐き捨てた。

エリートサラリーマン特有の、無機質な嫌悪。ひとみはコーヒーを淹れながら、夫の後ろ姿を冷徹に観察する。

​この男は、何も気づいていない。

自分の妻が昨夜、見知らぬ男たちに四肢を抑え込まれ、獣のような叫びを上げていたことも。

今、その清楚なブラウスの下にある肌が、白髪の紳士に刻まれた「真珠」の痕跡で赤く熱を持っていることも。

​「ごめんなさい。新患が多くて、事務作業が立て込んでいるの」

​事務的な謝罪。

誠司はそれ以上、ひとみの目を見ようともしなかった。

彼にとってのひとみは、家庭というシステムを維持するための歯車に過ぎない。

その無関心が、今のひとみには何よりの救いであり、同時に猛烈な侮蔑の対象だった。

​(……可哀想な人。自分の所有物が、もうとっくに壊れていることにも気づけないなんて)

​ひとみは冷めたコーヒーを飲み干すと、鏡の前でパールのネックレスを整えた。

これから向かう病院には、もう一人の「哀れな男」が待っている。
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