絡まる残り香―滴る甘い蜜―

【第一話】: 瓦解する日常 2

​「おはようございます、佐藤先生」

​診察室の重い扉を開けたひとみの声には、微塵の湿り気もなかった。

いつものように白衣を翻し、勝ち誇ったような笑みを浮かべて待ち構えていた佐藤医師が、獲物を見つけた蛇のように目を細める。

​「ああ、ひとみ君。今日も一段と……艶(つや)がいいじゃないか。昨夜はよく眠れたのかい?」

​佐藤は事務机を回り込み、ひとみの背後に音もなく忍び寄る。彼の常套手段だ。

逃げ場を塞ぐようにして、湿り気を帯びた指先を彼女のうなじ、パールのネックレスの下へと滑り込ませた。

以前のひとみなら、この指先一つで心臓を鷲掴みにされたように震え、従順な家畜のように項垂れていたはずだ。

​だが、今の彼女は違った。

佐藤の指が肌に触れた瞬間、ひとみの脳裏をよぎったのは、昨夜の「12粒の真珠」が内壁をゴリゴリと削り取った暴力的なまでの衝撃だった。

​(……この人の指、なんて細くて、頼りないのかしら)

​ひとみは、首筋を這う佐藤の指先を、まるで汚い羽虫を払うかのように無造作に、かつ冷徹に振り払った。

​「っ……何をする、ひとみ君!」

​佐藤の顔が、驚愕と屈辱で赤黒く染まる。

「先生。診察の予約が詰まっています。そんな子供じみたお遊びに付き合っている暇はありませんので」

​ひとみは振り返り、佐藤の瞳を正面から見据えた。

その瞳に宿っているのは、怯えでも拒絶でもない。

自分より遥かに格下の存在を、慈悲深く、あるいは退屈そうに眺める「捕食者」の冷たさだった。

ハプバーで、本物の支配者(白髪の男性)に、魂まで蹂躙されたひとみにとって、職権を盾に女性を弄ぶ佐藤の小細工など、滑稽な茶番に過ぎなかった。

​「君、自分が誰に向かって……っ!」

「失礼します」

​佐藤の恫喝を背中で聞き流し、ひとみは優雅に診察室を後にした。

廊下を歩く彼女の足取りは、かつてないほどに力強く、誇らしげだった。
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