絡まる残り香―滴る甘い蜜―

【第一話】: 瓦解する日常 3

​昼休みの喧騒に包まれたナースステーション。壁掛けのテレビが、無機質なニュース番組の音を垂れ流していた。

​「……続いてのニュースです。本日午前、JR総武線の車内で女性の身体を触ったとして、自称・派遣社員の男が東京都迷惑防止条例違反の疑いで現行犯逮捕されました」

​お仕着せの弁当を口に運んでいたひとみの手が、ぴたりと止まった。

画面に映し出されたのは、警察官に両脇を抱えられ、うつむきながら連行される男の姿。

薄汚れたビジネスバッグを握りしめ、脂ぎった顔を歪ませてカメラを避けるその男こそ、つい先日までひとみを「奴隷」と呼び、絶望の淵に突き落としていたあの痴漢の男だった。

​「……あ」

​喉の奥から、乾いた吐息が漏れた。

男はひとみの出勤時間が変更になったことを知らず、同じ車両で獲物を待ち続けていたのだ。

そして、飢えた獣のように代わりの女性に手を出し、周囲の乗客に取り押さえられたという。

​「この男、上野の飲食店でも客同士のトラブルを頻発させていたようで……」

​アナウンサーの声が続く。

ネットの速報掲示板には、男がハプニングバー『ジラジ』でも数々の卑劣な行為を繰り返し、常連たちから蛇蝎のごとく嫌われていた事実が次々と書き込まれていた。

店側は即座に男を永久追放処分(出禁)にしたと発表した。

​(……終わったのね。あんな、惨めな男に)

​男が懐に忍ばせていた、あの「奴隷契約書」。

それは今や、証拠品として警察に没収されたか、あるいは主(あるじ)の失墜と共にゴミ屑同然の紙切れへと変わった。

男という「飼い主」を失い、ひとみを縛っていた物理的な鎖は、あっけなく音を立てて崩れ去った。

​しかし、ひとみの胸に去来したのは、安堵ではなかった。

佐藤医師を鼻で笑い、無関心な夫を冷笑し、そして自分を支配していた男の破滅を目の当たりにした今、ひとみの中に残ったのは、剥き出しになった「自分自身の本能」だけだった。

​「ひとみさん、顔色が悪いわよ? 大丈夫?」

同僚の言葉に、ひとみはゆっくりと顔を上げた。

その唇には、誰にも悟られないほど微かな、けれど確実な悦悦の笑みが浮かんでいた。

​(……これで、誰にも邪魔されない。私は、私の意志で、あそこへ行ける)

​枷を外されたのは、一匹の獰猛な「雌」だった。

ひとみの指先は、カバンの中にあるシャネルの香水の瓶を、愛おしそうにそっとなぞっていた。
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