絡まる残り香―滴る甘い蜜―

【第一話】: 白衣の陥穽 6

玄関の床を踏むと、微かな芳香剤のレモンの香りがした。

加納の残り香を消すように、ひとみは深く息を吐き出す。

リビングから漏れるテレビの無機質な音が、鼓膜を叩く。

​「おかえり。遅かったね」

夫の平坦な声が、リビングのソファ越しに飛んできた。

彼の体臭は、古びた紙と洗剤の混じった、無味乾燥なもの。

ひとみは、自慢の脚を隠すようにロングコートの裾を整えた。

​「急患の対応で、事務作業が溜まっちゃって……」

嘘を吐く唇が、まだ加納の熱を記憶して微かに震える。

ひとみは浴室へ逃げ込み、真鍮の蛇口を勢いよく捻った。

立ち昇る湯気の湿り気と、塩素の匂いが鼻腔を満たす。

​ブラウスを脱ぎ捨てると、形の良い胸に紅い痕が浮いていた。

加納の指先が食い込んだ、愛執の証拠が鏡に映り込む。

ひとみは、指先でその熱をなぞり、奥歯を噛み締めた。

​シャワーの鋭い水飛沫が、火照った肌を容赦なく打つ。

排水口へ吸い込まれていく、男の脂と蜜の混じった濁り。

石鹸の泡が、太腿の内側に残る微かな痛みを白く覆い隠す。

石鹸の香料が、加納の濃厚なムスクを強引に洗い流す。

指先に触れる自慢の脚は、まだ微かな戦慄を帯びていた。

排水口へと渦巻く水流の音が、耳の奥で轟々と鳴り響く。

​「ママ、お風呂長くない?」

脱衣所の向こうから、娘の幼い声が鼓膜を不意に突いた。

ひとみは、形の良い胸にまとわりつく泡を慌てて流す。

タイルの冷たさが、足の裏から内臓まで一気に冷やした。

​バスタオルで肌を拭うと、乾いた綿の感触が肌を刺す。

鏡に映る首筋の紅い痕を、コンシーラーで丹念に潰した。

幕張の夜の静寂が、加納の吐息を遠い記憶へと変えていく。

​寝室のシーツの糊の匂いは、ひどく無機質で退屈だ。

隣で眠る夫の、規則正しくも生命力に欠ける寝息。

ひとみは、闇の中で自分の太腿をそっとなぞり直した。

​「……次は、いつかしら」

暗闇に溶ける独り言は、誰にも届かずに消えていく。

御茶ノ水の残り香が、脳裏の片隅で甘く腐敗し始めた。

不倫という名の麻薬が、彼女の血流を静かに支配する。
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