深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
第三話 狭間の音
その日、柚子は代官山の路地裏にあるレコーディングスタジオに、朝一番から入り浸っていた。
中目黒の喧騒から少し離れたこの街は、午前中特有の清廉な空気に満ちている。
会社から徒歩で移動しても二十分程度の場所にある、年季の入ったビルの地下へと続く階段を降りれば、そこには地上とは切り離された別の時間が流れていた。
重厚な鉛の防音扉を開けた瞬間、肌に触れる空気が一変する。
都会の湿気や車の排気音、人々の話し声といったあらゆる雑音が剥ぎ取られ、代わりに耳に届くのは、高価な機材が放つ微かな電子音のノイズと、使い古されたソファに染み付いたコーヒーの残り香だった。
ガラスの向こう側、密閉されたボーカルブースの中では、アーティストの和泉サクラがヘッドフォンを耳に当て、静かに目を閉じていた。
彼女はまだ二十三歳。
昨年の春、柚子のデスクに届いた一通のデモ音源。
何百曲と届く音源の中で、彼女の声だけが異彩を放っていた。
技術的に完璧なわけではない。
けれど、その声質には、聴く者の心の奥底に直接手を伸ばしてくるような、不思議な浸透力があったのだ。
多くの新人アーティストが「自分を見てほしい」と叫ぶような歌い方をする中で、サクラの歌声はどこまでも自然だった。
無欲な響きが、かえって聴き手の孤独に寄り添う気がして、直接サクラの声を聞いてみたいと思い、デモを聴いた数分後には、連絡先へ電話を入れていた。
「もう一回」
スピーカーから漏れたのは、今回の楽曲のレコーディングディレクターを務める、新田さんの低い声。
四十代後半。この業界で二十年近く修羅場をくぐり抜けてきた男だ。
手がけたヒット曲は数知れず。
仕事は紛れもなく一流だが、同時に「一切の妥協を許さない」ことでも有名だった。
今日、サクラが同じフレーズを何度歌い直したか、柚子はもう数えるのをやめていた。
十回か、十五回か、あるいはもっと。
ブースの中で、サクラが小さく、頷く。
新田さんの合図で、ヘッドフォンの中にピアノのイントロが流れ始めた。
柚子は調整室の椅子に深く腰掛け、祈るような心地でガラス越しの彼女を見つめる。
サクラは少し伏目がちのまま、静かに肺いっぱいの空気を吸い込み、唇を動かし始めた。
中目黒の喧騒から少し離れたこの街は、午前中特有の清廉な空気に満ちている。
会社から徒歩で移動しても二十分程度の場所にある、年季の入ったビルの地下へと続く階段を降りれば、そこには地上とは切り離された別の時間が流れていた。
重厚な鉛の防音扉を開けた瞬間、肌に触れる空気が一変する。
都会の湿気や車の排気音、人々の話し声といったあらゆる雑音が剥ぎ取られ、代わりに耳に届くのは、高価な機材が放つ微かな電子音のノイズと、使い古されたソファに染み付いたコーヒーの残り香だった。
ガラスの向こう側、密閉されたボーカルブースの中では、アーティストの和泉サクラがヘッドフォンを耳に当て、静かに目を閉じていた。
彼女はまだ二十三歳。
昨年の春、柚子のデスクに届いた一通のデモ音源。
何百曲と届く音源の中で、彼女の声だけが異彩を放っていた。
技術的に完璧なわけではない。
けれど、その声質には、聴く者の心の奥底に直接手を伸ばしてくるような、不思議な浸透力があったのだ。
多くの新人アーティストが「自分を見てほしい」と叫ぶような歌い方をする中で、サクラの歌声はどこまでも自然だった。
無欲な響きが、かえって聴き手の孤独に寄り添う気がして、直接サクラの声を聞いてみたいと思い、デモを聴いた数分後には、連絡先へ電話を入れていた。
「もう一回」
スピーカーから漏れたのは、今回の楽曲のレコーディングディレクターを務める、新田さんの低い声。
四十代後半。この業界で二十年近く修羅場をくぐり抜けてきた男だ。
手がけたヒット曲は数知れず。
仕事は紛れもなく一流だが、同時に「一切の妥協を許さない」ことでも有名だった。
今日、サクラが同じフレーズを何度歌い直したか、柚子はもう数えるのをやめていた。
十回か、十五回か、あるいはもっと。
ブースの中で、サクラが小さく、頷く。
新田さんの合図で、ヘッドフォンの中にピアノのイントロが流れ始めた。
柚子は調整室の椅子に深く腰掛け、祈るような心地でガラス越しの彼女を見つめる。
サクラは少し伏目がちのまま、静かに肺いっぱいの空気を吸い込み、唇を動かし始めた。