深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
第六話 サジェスト
レコード会社の二月は、年度末の駆け込みで息をする暇もない。
柚子のデスクには常に五つ以上の案件が積み重なっていて、スマートフォンの着信履歴は一日が終わる頃には二十件を超えていた。
駅の改札を出て、川沿いを歩いて、今夜はカフェにみんな居るかな、と思うとき――正確には、今夜九条はカフェにいるだろうか、と思っていた。
『まずい』の解像度は少しずつ上がっている。
午後からは、社内会議の議題は春夏のリリーススケジュールについて。
常に半年前の時間軸を生きている。
真冬にも関わらず真夏に発売されるシングルやアルバムの宣伝に関しても、今の内からある程度考えておかなければいけない。
柚子が今、担当しているアーティストのアルバム発売に合わせて、映画かドラマの主題歌として売り出す話が進んでいた。
「タイアップ候補のサントラ担当ですが」と、同期の真下が資料を広げた。
「制作サイドが希望しているのが『蒼』なんですよ」
柚子はタブレットに走らせていたスタイラスペンを持ったまま顔を上げた。
「蒼?」
「そうそう。配信サイト限定の新作ドラマも好評ですし。その劇伴担当しているのが蒼で、同じ流れで次も一緒にできないかって話が来てて」
「蒼って、どこのレーベルでしたっけ」
「個人事務所。本人はあんまり表に出てこない上に、プロフィールはほとんど公開してないんです」
柚子は資料に目を落とした。
蒼。
仕事をしていれば、名前だけは当たり前のように知っている。
最初は動画投稿サイトにアップされた、弾き語りの曲が、口コミから何百万再生まで伸びた。
とはいえ、彼が制作した音楽は——ちゃんと聴いたことがなかった。
「真下さん、蒼の音楽って詳しいですか」
「詳しくはないです。聴いたことはあるけど。去年、音楽原作プロジェクトのアニメーション映画ありましたよね。確か全編の作曲とアレンジ担当してたんじゃなかったかな」
「あー劇場版全編の音楽制作って凄すぎますよね」
「うんうん、今、過去資料集めてますし、野口さんにも送っきます。この話、進めるなら早めに動かないと他にとられちゃいますし。スケージュール押えられるなら、早めに抑えたい」
帰宅する前に、結局、LAMPに吸い寄せられるといつもの顔が揃っていた。
カウンターに座って、柚子はただの世間話として軽く口にした。
「ねえトシさん、蒼って知ってます?」
店内の空気が、一瞬変わった気がした。
気のせいかもしれないけれど「知ってるよ」とトシさんが答える。
声のトーンはいつもと変わらない。
「でも、なんでいきなり?」
「うーん、プロフィールほとんど公開してないから。ちょっとちゃんと聞いてみようかなと思って」
マスターがグラスを磨く音だけが続いた。
九条は、いつもの体勢でカウンターに頬杖を付いている。
開かれているノートは白紙で、ペンを持つ手が、トントンとゆっくりとリズムを刻んでいる
「九条さんは、蒼の音楽聞いたことありますか?」
ようやくこちらをみた九条の瞳に、店内の仄かな明かりが映りこんだ。
「有りますよ」
「すごい売れてるのに、私、ちゃんと聴いたことなくて」
「――残響っていうのかな。静か」
少し低めの声が、柚子の耳元に忍び込んでくる。
先週、九条のスマートフォンから流れてきたあの旋律が、一瞬頭をよぎった。
カモミール、という仮タイトルをつけていたあの曲。
音楽好きな人間は、だいたい似たようなことを言う。
マスターがちらりと九条を見た。
柚子のデスクには常に五つ以上の案件が積み重なっていて、スマートフォンの着信履歴は一日が終わる頃には二十件を超えていた。
駅の改札を出て、川沿いを歩いて、今夜はカフェにみんな居るかな、と思うとき――正確には、今夜九条はカフェにいるだろうか、と思っていた。
『まずい』の解像度は少しずつ上がっている。
午後からは、社内会議の議題は春夏のリリーススケジュールについて。
常に半年前の時間軸を生きている。
真冬にも関わらず真夏に発売されるシングルやアルバムの宣伝に関しても、今の内からある程度考えておかなければいけない。
柚子が今、担当しているアーティストのアルバム発売に合わせて、映画かドラマの主題歌として売り出す話が進んでいた。
「タイアップ候補のサントラ担当ですが」と、同期の真下が資料を広げた。
「制作サイドが希望しているのが『蒼』なんですよ」
柚子はタブレットに走らせていたスタイラスペンを持ったまま顔を上げた。
「蒼?」
「そうそう。配信サイト限定の新作ドラマも好評ですし。その劇伴担当しているのが蒼で、同じ流れで次も一緒にできないかって話が来てて」
「蒼って、どこのレーベルでしたっけ」
「個人事務所。本人はあんまり表に出てこない上に、プロフィールはほとんど公開してないんです」
柚子は資料に目を落とした。
蒼。
仕事をしていれば、名前だけは当たり前のように知っている。
最初は動画投稿サイトにアップされた、弾き語りの曲が、口コミから何百万再生まで伸びた。
とはいえ、彼が制作した音楽は——ちゃんと聴いたことがなかった。
「真下さん、蒼の音楽って詳しいですか」
「詳しくはないです。聴いたことはあるけど。去年、音楽原作プロジェクトのアニメーション映画ありましたよね。確か全編の作曲とアレンジ担当してたんじゃなかったかな」
「あー劇場版全編の音楽制作って凄すぎますよね」
「うんうん、今、過去資料集めてますし、野口さんにも送っきます。この話、進めるなら早めに動かないと他にとられちゃいますし。スケージュール押えられるなら、早めに抑えたい」
帰宅する前に、結局、LAMPに吸い寄せられるといつもの顔が揃っていた。
カウンターに座って、柚子はただの世間話として軽く口にした。
「ねえトシさん、蒼って知ってます?」
店内の空気が、一瞬変わった気がした。
気のせいかもしれないけれど「知ってるよ」とトシさんが答える。
声のトーンはいつもと変わらない。
「でも、なんでいきなり?」
「うーん、プロフィールほとんど公開してないから。ちょっとちゃんと聞いてみようかなと思って」
マスターがグラスを磨く音だけが続いた。
九条は、いつもの体勢でカウンターに頬杖を付いている。
開かれているノートは白紙で、ペンを持つ手が、トントンとゆっくりとリズムを刻んでいる
「九条さんは、蒼の音楽聞いたことありますか?」
ようやくこちらをみた九条の瞳に、店内の仄かな明かりが映りこんだ。
「有りますよ」
「すごい売れてるのに、私、ちゃんと聴いたことなくて」
「――残響っていうのかな。静か」
少し低めの声が、柚子の耳元に忍び込んでくる。
先週、九条のスマートフォンから流れてきたあの旋律が、一瞬頭をよぎった。
カモミール、という仮タイトルをつけていたあの曲。
音楽好きな人間は、だいたい似たようなことを言う。
マスターがちらりと九条を見た。