深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
 透明感のある声が、スタジオのハイエンドなスピーカーから溢れ出す。

 今のテイクは完璧だよね――そう柚子が確信し、わずかに身を乗り出した瞬間、新田さんがPA卓の向こうで容赦なく手を挙げた。

「サビ前の息の処理が雑。もう一回。一呼吸に、どれだけの未練を込めるべきか、もう一度意味を考えて歌って」

 抽象的で、残酷なほど鋭い指摘。
 しかし、ブースの中のサクラは表情一つ変えない。
 眉間に皺を寄せることも、溜息をつくこともなく、ただ新田さんの言葉を咀嚼するように数秒目を閉じた後、再びマイクに向き直る。

(彼女は、本当に強いな……)
 
 柚子は心の中で感嘆する。
 新人であれば、これほど何度もダメ出しを食らえば、声が震えたり心が折れたりしてもおかしくない。
 
「もう一回」
 
 新田さんがマイクに向かって言う。
 ブースの中でサクラが再び、頷いた。
 
 新田さんがPA卓のフェーダーを調整しながら、柚子の方を向かずに小声で尋ねてくる。

「で、先方さんはいつまでに、この完パケが欲しいって言ってるんだ?」

 柚子は手元の資料を一度確認し、慎重に言葉を選んで答える。

「来月の頭には、マスターアップして納品したいと聞いています。プロモーションのスケジュールを考えると、これ以上は後ろに倒せないんですよね……」

「うーん、無理だな」

 新田さんは即座に、吐き捨てるように言った。

「……そこをなんとか、お願いします。新田マジックで」

「無理なものは無理だ。時間は作るものじゃない、かけるものだしなあ」

 柚子は内心で深いため息をついた。
 新田さんの口から出る『無理』という言葉には、二つの種類がある。
 一つは、物理的・現実的にどうしようもない「完全な拒絶」。
 そしてもう一つは、自分の納得いくクオリティに達するまで時間をよこせという「交渉の合図」だ。

「ですが、サクラちゃんの声、今日はこれまでになく調子がいいですよね。サビの高音も、これまでにない、なんていえばいいかな……艶感、が出ています」

 柚子が探るようにそう付け加えると、新田さんはようやく卓から目を離し、不敵な笑みを浮かべた。

「ああ、いい。最高にいい。だからこそだ、野口ちゃん。こんなにいい素材を、中途半端な煮込み方で世に出すわけにはいかないんだよ。俺は妥協したくない」

 その言葉に、柚子は密かに安堵した。

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