深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

第二話 となりの朝、となりの夜

 翌朝、目が覚めたのは八時二十分。

 今日は十時に社内会議がある。
 昨夜もまた、あんな時間まで起きていたのに、こうしてまだ、ちゃんと朝に起き上がれるのは、体内時計がまだ完全に死んでいない証拠だ。
 重い身体を引きずって洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗う。
 鏡の前で手早くメイクを施し、ただの「野口柚子」から「レコード会社のA&R」へと武装を済ませる。
 こうしてまだ、ちゃんと朝に起き上がれるのは、体内時計がまだ死んでいない証拠だ。
 冷蔵庫を開けて、賞味期限が昨日までのヨーグルトを発見した。
 数秒だけ躊躇したものの、見なかったことにしてそのまま胃に流し込む。
 
 この仕事は、何よりも体力が資本だ。
 朝食を抜いて倒れるわけにはいかない。
 かろうじてそれだけは、入社以来ずっと守っているマイルールだった。

 この仕事は体が資本。
 かろうじてそれだけは守っている。

 鞄を持って玄関を出たのは八時五十分。
 頭の中はすでに仕事モードに切り替わっている。
 会議までにメールチェックも済ませたいし、出来るならば月末の立て替え払いの清算を、経理のシステムに登録しておきたい。
 エレベーターのボタンを押して、扉が開くのを待っていると、ふと背後に微かな足音と気配を感じて振り返った。

「あ……」

 そこに立っていたのは、昨夜、LAMPで一席分の余白を挟んで隣に座り、同じエレベーターに乗った『501号室の彼』だった。

 黒い無地のTシャツに、色落ちしたヴィンテージのデニム。
 昨夜はパーカーのフードでよく見えなかったが、こうして明るい朝の光の下で見ると、驚くほど整った顔立ちをしている。
 髪には少し寝ぐせが残っていて、目元は、どこか気怠げだ。
 昨夜の静謐な雰囲気よりも、無防備な顔をしていた。
 Tシャツ越しにわかる肩幅の広さに、ふと彼が成人男性であることを意識させられる。

「おはようございます」

 柚子が先に言った。
 同じ階の住人として、そして社会人として当然の挨拶だ。

「おはようございます」

 彼も短く返した。
 朝特有の、少し掠れた低い声。
 耳の奥を直接撫でられるような心地の良い響きに、柚子は一瞬だけ瞬きをした。
 それから、彼は一拍おいて「早いんですね」と付け加えた。
 
 主語は無かったけれど、彼が深夜二時にカフェにいた人間であることを考えれば、それは柚子の行動時間に対する言及であろうと予測はつく。

「仕事なので。やることが多くて」

「何時からですか?」

「会議自体は十時ですけど、その前に、色々と片づけたい事務作業があって」

 チン、と音がしてエレベーターが一階に着いた。
 柚子が先に出て、振り返ると彼も当然のようについてくる。
 エントランスを出て、冷たい冬の空気が肺を満たす。
 駅の方へ歩き始めたところで、二人はごく自然に横に並んでいた。

「駅ですか」

「そうです」

「じゃあ一緒に」

 断る理由もないので、そのまま歩調を合わせる。
 昨夜は暗くてよくわからなかったが、並んで歩くと、彼の方が頭一つ半ほど背が高いことがわかった。
 柚子の身長が、いわゆる日本人女性の平均値なので、隣を歩く彼は、かなりの高身長だ。

 朝の中目黒は、深夜と全く違う顔をしていた。
 川沿いの遊歩道には、楽しそうに犬の散歩をしている人、白い息を吐きながらジョギングしている人、自転車で慌ただしく保育園に子どもを連れていく人。
 昨夜二時過ぎに、静寂の中を重い足取りで歩いた記憶と、今の生活感に溢れた景色が上手く繋がらない。

「仕事、大変そうですね」

 彼が言った。
 唐突でも、馴れ馴れしくもない。
 ただ事実として言っているような口調。
 寝起きの頭で、ただ思いついたことを口にしていると言った印象を受ける。

「大変ですよ。毎日時間に追われてますし。でも好きなので」

「好きだから、大変でも続けられる?」

「たぶんそうだと思います。嫌いだったらとっくに辞めてますね」

 柚子が笑って答えると、彼は少しだけ目を伏せ、「そうか」と、自分自身に言い聞かせるように小さく呟いた。

 その横顔が、朝の光の中なのにひどく翳って見えて、柚子は胸の奥が少しだけざわついた。

 やがて、駅の改札前に着く。
 行き交う通勤客の波を避けながら、柚子はパスケースからICカードを出した。

「じゃあ、私はここで」

「はい。お疲れ様です。いってらっしゃい」

 えっ、と柚子は足をとめた。
 いってらっしゃい。
 家族でも恋人でもない、ただの隣人にかけられたその言葉は、予想外に温かく、柚子の心の無防備な場所をすとんと突いた。

 彼は改札には入らなかった。
 どうやら電車に乗るわけではないらしい。
 彼が何のためにここまで歩いてきたのか、柚子にはわからなかった。

 柚子は改札を通りながら、ふと振り返った。
 彼はまだそこに立っていて、通勤客の波に逆らうように一人だけ静止し、どこか茫洋と遠くを見ていた。

 何を考えているんだろう、と思ったのは一瞬だけ。

 
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