深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
 午前中は、スマートフォンで仕事の連絡を取り続けることで終わった。
 サクラは無事か。新田さんは。担当アーティストたちは。
 関係各所にSNSのメッセージを送り返事を待つ。
 捻挫した一人を除いて、それ以外大きな怪我をした人はいなかったようだ。

 中目黒の街は、昨晩よりも出歩いている人の数が少ない。
 コンビニとスーパーに一応向かってみたけれど、コンビニは営業停止中。
 スーパーは店舗の前で臨時の会計が設置されてあるものの、長蛇の列。
 LAMPは日頃から昼営業はしていない。
 帰宅困難者の人たちを送り出した後、マスターとレイ君は無事に帰れたのかな。

 お腹が空いたな……。

 カップラーメンを食べようとして、お湯を沸かすために水が必要であることに今更ながら気が付く。
 風呂の残り湯を使うのは流石に……無理。

 缶詰を開けかけた瞬間、スマートフォンが通知を知らせる。
 確認すると、昨晩念のために連絡先を交わしておいた九条からのメッセージだ。
 知り合って数ヵ月、しかもたった一度とはいえ、自宅にもお邪魔して食事を共にした相手のフルネームを今更ながらに知る。

 九条奏翔。
 くじょうかなと。くじょうかなで、かな?

 九条:野口さん今家にいます? 食料、大丈夫ですか

 何かを期待していた訳では無いのだが、淡々と綴られる文字には、甘さのひとつも含まれていない。
 柚子もなるべく事務的に言葉を返す。 

 野口:缶詰が一個と、カップラーメンが二個あるんですが、お水がなくて

 即既読が付き、メッセージが続けて届けられる。
 
 九条:よかったらうちに来ますか
 九条:うちと言っても、501じゃなくて

 柚子はトーク画面を眺めたまま、少し首を傾げた。
 501じゃなくて?

 九条:成城学園に自宅があります
 九条:そこは仮の仕事場として借りているだけなので
 九条:こちらはソーラーパネルがあるので電気は使えます
 九条:貯水タンクもあるので水も大丈夫
 九条:食料も多少あるかと

 柚子はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けなかった。
 記録として残っている単語の幾つか。

 成城学園。
 ソーラーパネル。
 貯水タンク。
 柚子の隣室は、仮の仕事場。

 この人はいったい誰なんだろう。
 そんな疑問は、空腹の胃の奥に忽ち消えていく。
 今はそんなことより、食糧の確保が先決。

 疑問と不思議な気持ちが半々で混ざり合う中、柚子は返事を打つ。

 柚子:お言葉に甘えます

 九条からは「三〇分後に車で迎えに行きます。着替えは何日か分あった方が良いです。エントランスで待っていてください」という返事が最後で、柚子が返した「ありがとうございます、助かります」というメッセージには既読マークがついただけだった。

 言われた通りの着替えと充電器、それから仕事関連の資料を大きめのトートバッグに詰めていく。
 昨晩メイク落としで軽く顔を拭いただけの自分の顔が、鏡の端に映っているのが見えて、慌てて日焼け止めクリームとパウダーをはたいた。
 顔も頭も洗えていない悲惨な状態の柚子を見た九条は、どんな印象を受けるだろうか。
 と、なぜか落胆してしまう自分に気が付いて「いや、そういうのじゃないし」と独り言を零した。
 
 水浸しのエントランスを抜け、外で待っていると、濃紺のスポーツカーが車体を滑り込ませてくる。
 窓から顔を覗かせた九条が「乗ってください」とキーロックを解除した。

 低めの位置に在る助手席に乗り込むと、革張りのシートで、かすかに木のいい匂いがする。

「荷物、後ろに置いていいですよ」

「……この車、九条さんのですか」

「古いやつですよ」

 古いやつですが、じゃないだろうと思った。
 車は詳しくないけれど、四つの丸が連なるマークは、きっと誰でも知っている。
 シートに背中を預けながら、いろんな疑問が浮かんでは声に出せず通り過ぎていく。

「そういえば九条さん、下の名前なんて読むんですか? かなと、ですか? かなで?」

 低く唸るようなエンジン音がかかる。
 九条の向こう側に見える窓外の光景が、流れ始めた。
 落下した看板、ひび割れている壁面、ひしゃげた何かのアンテナ。

「かなで、です。奏でる、の奏で」



 

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