深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

第九話 独白 ※九条視点固定

 家に、自分以外の気配がある。

 九条はキッチンカウンターの椅子に深く腰掛け、リビングから漏れ聞こえてくるかすかな気配に耳を澄ませていた。
 衣擦れの音。スマートフォンの通知音。
 それに続く、小さく安堵したような吐息。
 たったそれだけのことが、普段は広すぎて冷え切っているこの成城の室内に、確かな熱を持って響いている。

 リビングには、野口柚子がいた。

 彼女が自分のテリトリーの中で息をし、寛いでいるという事実だけで、九条の胸の奥が甘く、そしてどうしようもなく締め付けられる。

 中目黒のマンションに越してきたのは、今思えば運命に導かれたような偶然だった。

 新しい仕事のためのリサーチという名目は本心だったが、成城学園の広すぎる家で独り過ごすうちに、己の身体の中から、いわゆる「日常」という生活音の存在が消え失せていたことが、何よりの動機だった。
 曲作りに行き詰まり、普通の一人暮らしの感触を取り戻したくて選んだあの手狭な部屋。
 その隣の502号室に彼女が住んでいると知ったのは、引っ越してきた翌朝のことだ。

 閉まりかけたエレベーターに、慌てて滑り込んできた女性。
「すみません」と頭を下げた彼女の顔を見て、九条は文字通り、息を呑んで硬直した。
 数年前に一度、仕事の場で会ったきりの野口柚子。
 彼女の方は、フードを目深に被った自分のことをただの不愛想な隣人だとしか思っていないようだったが、九条にとって彼女は、忘れようにも忘れられない、魂に刻み込まれた人物だった。
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