深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
それは、九条が音楽の道を諦めようとしていた夜のことだ。
薄暗いワンルームの部屋で、レコード会社から届いた何通目かの不採用通知を、感情を殺してゴミ箱へ放り投げようとした。
その無機質な定型文が印字された紙の隅に、一枚の小さな付箋が挟まっていたのだ。
『このデモの3コーラス目、本当に好きでした』
手書きの、たった一行。
丸みを帯びた丁寧な文字の横に、差出人の印として『野口』とだけ記されていた。
一番迷い、何度も音を重ねては削り、どうしても納得できずに苦しんでいた箇所。
恐らく、審査員には「商業的ではない」と切り捨てられるだろうと諦めていたその3コーラス目を、見ず知らずの『野口』という人間だけが、真っ直ぐに肯定してくれた。
あの付箋を握りしめ、声を出して泣いた夜を、九条は一生忘れない。
あの一行がなければ、今の『蒼』という存在はこの世に生まれていなかった。
自分以外の人間にとっては、何の意味も持たないただの切れ端。何の価値も無い文字列。
それは今も、書斎の引き出しの奥に、お守りのように大切に仕舞われている。
そんな彼女と、中目黒で再会した。
叔父の親友が経営しているという穴場的なカフェ『LAMP』だった。
九条は、アーティストの『蒼(SOU)』としてではなく、ただの隣人として、カフェの常連として、一席分の距離を保ちながら同じカウンターに座った。
名前も告げないまま、同じカモミールティーの香りを共有する。
常連の彼女は、仕事の顔を外して静かにカモミールティーを飲む。
彼女は仕事の顔を外し、無防備な素顔でマスターや常連客と笑い合っていた。
その柔らかな声を聞いているだけで、九条の中にあった音楽への渇きが、少しずつ潤っていくのを感じた。
触れたい。
話しかけたい。
名前も告げないまま共有するその静かな時間が、いつしか彼にとってかけがえのないものになっていた。
ただの隣人、ただの常連という仮面を剥がしてしまったら、彼女は仕事の顔になり、自分から遠ざかってしまうのではないか。
その恐怖が、九条を臆病にさせていた。