深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
彼女と、彼女の住む街をイメージして書き始めた曲には、自然と『Chamomile』という名がついた。
ある土曜日、どうしても我慢できず、勇気を出して未完成のその曲を彼女に聴かせた。
イヤホンの片方を共有した、あの近すぎる距離。彼女のシャンプーの匂いが鼻先を掠め、心臓が破裂するかと思った。
沈黙のあとで、彼女が零した「派手じゃなくて、日常に寄り添う感じ」という言葉。
5年前の付箋と同じだ。
彼女はいつだって、九条が一番欲しかった言葉を、いとも簡単に見つけ出して与えてくれる。
今、こうして彼女が自分の家に在るのは、不意に起きた地震のせいだった。
揺れが襲った瞬間、九条の頭には高価な機材のことなど一切浮かばなかった。
ただ、彼女が一人で怯えているのではないかということだけが、猛烈なパニックとなって九条を突き動かした。
停電し、断水し、食料もなく、暗闇で心細くしていたであろう彼女を、自分の安全な領域に引きずり込む口実ができた。
彼女の同僚の『真下』という男がカフェに辿り着いた時は、殺意に近い嫉妬で頭がおかしくなりそうだったが、結果として彼女をこの成城の家に連れ帰ることができたのだから、今はどうでもいい。
いや、本当は地震などなくとも、限界だったのだ。
いつか理由をつけて、彼女を自分の視界から逃げられない場所へ閉じ込めていたかもしれない。
己の心が、もう手に負えないほど彼女に執着していることを、痛いほど自覚していた。
ソファでスマートフォンを充電していた彼女の表情がふと和らぐ。
「充電できると思ってなかったので……仕事のメール沢山きてました」
少し赤くなった彼女の瞳を見て、この数日間の彼女の消耗を想った。
何も言わず、ただ温かな雑炊を作って出す。
彼女がふうふうと息を吹きかけ、一口食べて零した「おいしい」という本心の声が、橙色に染まる夕陽の中に溶けていった。
その顔を見た瞬間、九条は自分の人生のすべてを懸けて、この笑顔を手放さないと誓った。