深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

  タブレットを操作していた九条が、イヤホンの片側を差し出す。
 
「聴いてみてください」
 
 イントロは、ピアノの静かな音が忍び込んできた。
 最初の数音で、一度、音が止まった。
 それから、ゆったりと紡がれるような旋律。

 ピアノの音に合わせて、九条の声なのだろうか。
 ハーモニーが重なる。 

 歌詞は無い。
 テナーの深みとピアノだけ。
 ゆっくりと音が、慎重に重なっていく。
 一分くらいで、音声データは再生を止めた。

「えっと……さっきの、話みたいな曲ですね」
 
「さっきの話?」
 
「日常に寄り添う感じで、聴き終わった後も、何かが残る」
 
 九条は、何も言わなかった。
 
「タイトル、あるんですか」
 
「まだ仮ですが『Chamomile』」
 
 柚子は少しの間、その言葉を頭の中で数回転がした。 

 カモミール。
 
 毎夜といっていいほど帰宅前に夜カフェ、LAMPで柚子が「いつもの」と注文しているあのお茶。
 疲れた深夜に、両手で包んでいるあの温かさ。
 
「すごく……良いですね」
 
 声が少し、掠れた気がした。 
 九条は、僅かに目を細めた。

「ごちそうさまでした!」

「こちらこそ、ビールありがとうございました」

 501号室の前から502号室の前まで、数歩の距離。 
 柚子は鍵を出しながら、振り返る。
 
「あの、さっきの曲、形になったら聴かせてもらえますか」
  
「――聴かせたい人がいるので、その後で良ければ」
 
「もちろん完パケしてからで大丈夫です! それじゃあ、楽しみにしてます!」
 
 部屋に入って、扉を閉めた後、靴も脱がずに、玄関に立ち尽くす。
 
 さっきの音が、まだ耳の中で鳴り続けている。
 九条の声で紡がれたカモミール、という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
 
 これは、いよいよ本格的に、まずい。
 
 一月の最初にそう思ったのに、今日でだいぶ状況が悪化した気がした。
 悪化した、という言葉が正しいのかも、もうよく分からない。

 だって、まともな恋なんて、久しくしていなかったから。

 
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