深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
 機材の確認や郵便物の整理のために事務所へと向かう九条を送り出した後、柚子はリビングの定位置で仕事をしている。
 リモートワークは移動の煩わしさがない反面、思考が凝り固まりやすい。
 メールを返し、資料をまとめ、ふと一息ついた時、柚子は自分でコーヒーを淹れる。

 九条がいないと、コーヒーはただの苦い飲み物に戻る気がした。
 彼が淹れる一杯がどれほど贅沢な時間だったか、独りになって初めて気づかされる。

 怖いな。なんか。
 彼の存在がこれほど速いスピードで当たり前になっていくことに、微かな恐怖と、それ以上の心地よさを感じていた。

 夕暮れ時、玄関の開く音がして、食材の入ったエコバッグを提げた九条が帰ってきた。

「ただいまもどりました」

「おかえりなさい」

 反射的に返した言葉が、あまりに自然に空間に溶けたことに、柚子は戸惑い、一瞬動作を止めた。
 九条はそんな彼女の機微を逃さず「どうしましたか?」と静かに問いかける。

「……いえ、なんでもないです」

 キッチンへと向かう彼の背中を見送りながら、柚子は冷めかけたコーヒーを啜った。
 付き合って二週間。
 生活を共にするということは、こういう無意識の積み重ねなのだと、彼女は改めて思い知る。

 夕食後の片付けも、最近では一つの攻防戦になっていた。

「これくらいはやらせてください」

 食後の皿を洗おうとする九条を、柚子はなかば強引に押し退けた。

「無理はしなくていいですよ。仕事、疲れたでしょう」

「九条さんこそ、夕飯まで作って……別によくないです、代わってください」

 九条は少しだけ困ったように眉を下げたが、柚子の意志が固いことを知ると「……分かりました」と素直に引き下がった。
 
 甘やかそうとする九条と、対等でいようとする柚子。
 恋人のようでもあり、長年連れ添った同居人のようでもある不思議な均衡だ。
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