深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
その夜、事件は廊下で起きた。
広い浴室で、ようやく慣れてきた水圧の強いシャワーを浴び、柚子は湯冷めしないうちに廊下へと出た。
タオルで濡れた髪を拭きながら、自分の借りているゲストルームへ戻ろうとした、その角。
九条がいた。
浴室に向かうところだったのか、彼はいつものきちんとしたシャツではなく、薄いTシャツに部屋着のパンツという、ひどく無防備な格好をしていた。
二人の足が止まる。
湿った空気と石鹸の香りが、廊下に立ち込めた。
濡れた髪のまま立ち尽くす柚子と、タオルを手にした九条。
一秒、二秒。
その短い沈黙の中で、柚子の視線は九条の喉仏や、Tシャツ越しに見える肩のラインに吸い寄せられてしまう。
「……お先に、お借りしました」
「はい。おやすみなさい」
九条の声はいつも通り静かだったが、その瞳には、今まで見たことのないような深い熱が宿っている気がした。
部屋に駆け込み、扉を閉めて。
ドアにもたれかかり、熱くなった顔を両手で覆う。
LAMPのカウンターで隣り合っていた時も、曲を聴かせてもらった時の、彼は。
今さっき廊下で触れ合いそうになったのは、音楽家でも隣人でもない、生身の、体温を持った一人の男性としての九条奏翔だった。
「……なにやってるんだろ、私。てか……付き合ってるんだよね」
独り言が、激しい鼓動にかき消される。
翌朝、キッチンへ向かうと、九条は昨夜のことなどなかったかのようにコーヒーを淹れていた。
「おはようございます、野口さん」
その落ち着き払った横顔を見ていると、柚子だけが一人で浮き足立っているようで、少しだけ悔しくなる。
「九条さん」
「はい」
「昨日……」
「うん」
「…………なんでもないです」
逃げるように視線をコーヒーカップに落とす。
九条はそれ以上追及せず、彼女の前に焼きたてのトーストを置いた。
二人の時間は、穏やかな日常の重心を保ちながらも、確実に変化していく。
窓の外、朝の光に照らされる庭を眺めながら、柚子は確信する。
つり橋理論なんかじゃ、ないのかも。
激しく打つ胸の音は、非常事態のせいではなく、間違いなく目の前の男に向けられたものだった。