深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

第十二話 名前を呼んで

 こんなこと誰にも相談が出来ない。

 柚子は、画面を睨みつける。
 タブレットの液晶画面に立ち上がっている社用チャットは、先ほどから煩いくらい通知を鳴らしていた。
 その文字はちっとも頭に入ってこない。

 相談相手を一人ずつ思い浮かべてみる。
 カフェ「LAMP」のマスター?
 トシさん、香奈さん?
 結城さんだけは絶対にあり得ない。
 誰に打ち明けたところで、面白おかしく茶化される未来が透けて見えた。

 だから、この胸のざわつきは自分一人で抱え込むしかないのだと、柚子は深くため息をつきながらタブレットを伏せた。

 問題は、あまりにも単純で、それゆえに深刻だった。
 あの風呂上がりの廊下で九条と鉢合わせて以来、柚子の世界から平穏という文字が消えてしまったのだ。
 この三日間、彼女はあまりに九条を意識しすぎていた。

 朝食を共に囲む時、仕事の合間に彼がお茶を運んできてくれる時、夜のリビングで同じ空気を吸っている時。
 九条自身は、以前と何ら変わりない。
 変わってしまったのは、彼の些細な仕草ひとつに鼓動を跳ねさせてしまう、自分の方だった。

 その夜も、柚子は一人リビングで延期中になってしまったサクラのリリースイベントに関する企画書を広げていた。
 九条は書斎に降りて作業をしている。
 一人きりの空間、集中するには絶好の環境のはずなのに、企画書は三ページ目から一向に進まない。
 風に揺れる庭の木々を眺めているうちに、三十分が過ぎ、書斎の階段を上る足音が聞こえてきた。

「まだ起きていたんですか」

「えっと……仕事、してました」

「もう十一時を過ぎています。そろそろ休んだ方がいい」

 九条はキッチンで水を飲むと、リビングへ戻ってきた。
 そして、ソファの端に腰を下ろす。
 柚子との間に、ぽっかりと一人分(・・・)の空白を残した場所に。

 それは、LAMPのカウンターで彼が守り続けていた、あの一席分の距離だった。
 今もそれを保とうとする彼の律儀さに、柚子の口元にふと自嘲気味な笑みが浮かぶ。

「何か、面白いことでも?」

「いえ……LAMPのことを思い出していたんです。あのカウンターで、いつも一席分空けて座っていたな、って」

 九条は少しの間、無言で柚子を見つめた。

「……覚ていたんですか」

「ええ。最初の夜から、ずっとそうでしたから」

 九条は自分の手元を一度見つめると、ゆっくりとソファの上を滑るように移動した。

 数ヶ月間、守られ続けてきた聖域のような空白が、あっけなく消える。


 
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