深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
 体温が届く距離にまで迫った九条は、低い声で囁いた。

「今は、違いますよ」

 沈黙がリビングを支配する。
 それは以前の穏やかな静寂ではなく、火花が散る直前のような、密度の高い沈黙だった。
 柚子は動悸を隠すように、無理に仕事の話を切り出した。

「く、九条さんはお仕事順調ですか?」

「来週には提出しなければならないので」

「あ……『Chamomile』もうすぐ完成なんですね。聴かせてもらえますか?」

「ええ。前に言いましたよね。完成したら、真っ先に聴かせたい人がいると。貴女、です」

「……今さら、言いますか、それ」

 思わず口を突いて出た言葉に、九条が身体を彼女の方へ向けた。
 柚子もまた、吸い寄せられるように彼を見つめる。
 一席分の距離がない今、彼の瞳の奥にある熱が、隠しようもなく伝わってきた。

「今更でも、伝えますよ。――柚子さん」

 名前を、呼ばれた。

「野口さん」という壁を取り払い、初めて呼ばれたその名前に、柚子は息を止めた。

「あの、えっと……」

「そろそろ、変えようと思って」

 九条の声はどこまでも静かだったが、その目は逃げ場を許さないほど真剣だった。
 彼は少し身を乗り出すと、追い詰めるように言葉を重ねる。

「柚子さん。この三日間、ずっと俺のことを意識しているでしょう」

「……してないです」

「しています。お茶を運ぶたびに目を逸らすし、さっきから一度も俺の目を見ようとしない」

 あまりに正確に言い当てられ、柚子は言葉を失う。
 廊下での一瞬の戸惑いを、彼もまた同じ熱量で記憶し、彼女の反応を観察していたのだ。
 九条の唇に、静かな、けれど確信に満ちた笑みが浮かぶ。

「気づいていないとでも、思っていましたか?」

「……気づかないで、ほしかったです……恥ずかしい」

 搾り出すような柚子の答えを聞くと、九条はもう一度、甘く、熱を帯びた声で「柚子さん」と呼んだ。

 彼の指先が、柚子の顎にそっと触れる。
 抗えない力強さと、壊れ物を扱うような優しさが同居したその感触に導かれ、柚子の顔が上げさせられた。


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