深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

 朝、意識を浮上させたのは、カーテンの隙間から差し込む鋭い光だった。
 窓の外には、昨夜の華やかな喧騒を飲み込んだ東京湾が広がっている。
 朝陽を反射してきらきらと輝く水面は、残酷なほどに美しく、穏やかな色をしている。

 九条は、すでに起きていた。
 窓際のパーソナルチェアに深く腰掛け、物音ひとつ立てずに海を見つめている。
 その横顔に、昨夜の熱の余韻はなく、ただ、凪いだ海のような静けさだけが宿っていた。

「……おはようございます」

 柚子が声をかけると、九条はゆっくりとこちらを振り返った。
 逆光のせいで表情はよく見えないが、細められた瞳には、隠しようのない慈しみが滲む。

「おはようございます。……あまり元気がないですね」

 振り返った彼の瞳は、柚子の内面を即座に捉えていた。
 九条の観察眼は、時に鋭すぎて痛い。
 柚子は後ろめたさから、わずかに視線を逸らし、シーツの端を指先でなぞった。

「気のせい、です」

「気のせいではないと思いますが。もしかして身体、辛いですか?」

 九条が真顔で問い、柚子は小さく、苦笑混じりの声を漏らした。

「……そうですね。整体、行こうかな」

 それは、彼女にとっての日常への帰還の合図。
 煌びやかな夜景も、一晩で消えてしまうほど高価なシャンパンも、自分を包む分厚いバスローブも。

 そのすべてが九条奏翔にとっては普通(・・)なのだと思い知るたび、柚子の足元は頼りなく浮き上がってしまう。
 昨夜、シャワーの音にかき消した独り言が、今も胸の奥で澱のように溜まっていた。

 九条は、何かを言いかけて口を噤んだ。
 彼女がなぜ今、整体という単語を出したのか。
 単純な肉体の疲労からくるものではなく、自分との間に引かれた見えない境界線をなぞるための儀式であることを、彼は察していたのかもしれない。

 そう、身体が辛いわけではない。
 ただ、この眩暈のような違和感をリセットしたかっただけだ。

 朝の光に照らされた東京湾は、夜の華やかさよりもずっと静かで、どこか遠い。
 隣にいる九条に、この言葉にならない不安をどう伝えればいいのか。
 拒絶も肯定もせず、ただ彼女の言葉を受け止める九条は、どこまで柚子の本心を見抜いているのか。

 柚子は、出口の見えない問いを、心の中で何度も繰り返していた。
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