深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
九条が去った後には熱を帯びた空気が、残されていた。
無事に大きな山場を越え、安堵の息を吐きながら、柚子は自分のデスクに戻ると、ラジオ収録の準備のために足早に資料をまとめる。
メール添付で届いていた台本を五部コピーすると、SNSに掲載する動画を撮影するための社用スマホの充電を確かめ、荷物を抱え、ペットボトルに手を伸ばすした。
中身が殆ど無い。
会社を出る前に、休憩室の自動販売機へ向かうと、そこにはすでに真下と、橋本、そして女性広報の相良がコーヒー片手に談笑していた。
「あ、野口さんお疲れ。この後は?」
相良が声をかけてくる。
柚子は「お疲れ様です」と会釈し、自販機のボタンを押してミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
「今日はラジオの二本録りがあって。溜池山王のスタジオに行かなきゃいけないんです」
「うわ、タフだねえ。でも今日の打ち合わせは最高だったね! ナマ蒼さん鳥肌立ったわー。物凄いイケメンでイケボ。ああいう人スパダリっていうんでしょ?」
相良が大げさに腕をさすってみせる。
「そういえば、さっきの会議の後、蒼さんと随分親しげに話してなかった?」
何気ない相良の言葉に、柚子はキャップを開けようとしていた手をピタリと止めた。
知り合いどころか、今は、一緒に暮らしている。
心臓が跳ねるのを必死に隠し、平常心を装う。
「い、いえ、そんなことないですよ。今回のプロジェクトでご挨拶したくらいで……。ただ、音楽に対する姿勢がストイックな方だな、とは思います」
「そっかー。いや、蒼さんってミステリアスだし、近寄りがたいオーラあるからさ。でも、あんな才能の塊みたいな人、近くにいたら惚れちゃいそうよね」
相良が笑いながら言うと、橋本が缶コーヒーを揺らしながら苦笑交じりに口を挟んだ。
「お前、こないだ『仕事関係者とは絶対付き合えない』って豪語してなかったか?」
「それはそれ、これはこれですよ! ……でもまあ、現実的に考えたら無理かな。一緒にいても、結局は『あの曲のプロモーションどうする?』とか、仕事の話ばっかりになっちゃいそうだし。家でまで仕事モードになるのはキツいわ」
相良の言葉が、柚子の胸にチクリと刺さった。
まさに今、柚子と九条は同じ屋根の下にいる。
そして、彼は柚子が担当するプロジェクトの最重要人物なのだ。
「橋本さんは、奥さんとは学生時代からですよね?」
真下が話題を振ると、橋本は目尻を下げた。
「ああ。嫁さんは音楽業界とは全く無縁の、普通の事務職だからな。家に帰れば仕事の愚痴を聞いてくれるし、俺もオンとオフが切り替えられる。……まあ、真下んとこは、またちょっと違うだろうけどな」
振られた真下は、少しだけ紙コップを見つめ、穏やかに微笑んだ。
「そうですね。うちの妻は、俺が働き始めたばかりの頃に病気で亡くなったので……。今は、息子と二人三脚です。仕事関係の出会いもないわけじゃないですが、やっぱり子供のことが第一ですから、誰かと付き合うとかは、なかなか考えられないですね」
シングルファザーとして仕事と育児を両立させている真下の言葉には、静かな重みがあった。
三者三様の、恋愛と結婚の価値観。
それを聞きながら、柚子は手元の冷たいペットボトルを両手で包み込んだ。
自分と九条の関係は、一体何なのだろう。
恋人同士のような甘い時間を過ごしてはいるけれど、それは『同居人』という危ういバランスの上に成り立っているだけではないのか。
もし、仕事で意見が衝突したら?
もし、彼が曲を書けなくなったら?
相良が言った「仕事関係者とは付き合えない」という言葉が、呪いのように柚子の頭の中で反響していた。
「私、そろそろ行かないと。お先に失礼します!」
柚子は思考を振り切るようにわざと明るく告げ、休憩室を後にした。
無事に大きな山場を越え、安堵の息を吐きながら、柚子は自分のデスクに戻ると、ラジオ収録の準備のために足早に資料をまとめる。
メール添付で届いていた台本を五部コピーすると、SNSに掲載する動画を撮影するための社用スマホの充電を確かめ、荷物を抱え、ペットボトルに手を伸ばすした。
中身が殆ど無い。
会社を出る前に、休憩室の自動販売機へ向かうと、そこにはすでに真下と、橋本、そして女性広報の相良がコーヒー片手に談笑していた。
「あ、野口さんお疲れ。この後は?」
相良が声をかけてくる。
柚子は「お疲れ様です」と会釈し、自販機のボタンを押してミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
「今日はラジオの二本録りがあって。溜池山王のスタジオに行かなきゃいけないんです」
「うわ、タフだねえ。でも今日の打ち合わせは最高だったね! ナマ蒼さん鳥肌立ったわー。物凄いイケメンでイケボ。ああいう人スパダリっていうんでしょ?」
相良が大げさに腕をさすってみせる。
「そういえば、さっきの会議の後、蒼さんと随分親しげに話してなかった?」
何気ない相良の言葉に、柚子はキャップを開けようとしていた手をピタリと止めた。
知り合いどころか、今は、一緒に暮らしている。
心臓が跳ねるのを必死に隠し、平常心を装う。
「い、いえ、そんなことないですよ。今回のプロジェクトでご挨拶したくらいで……。ただ、音楽に対する姿勢がストイックな方だな、とは思います」
「そっかー。いや、蒼さんってミステリアスだし、近寄りがたいオーラあるからさ。でも、あんな才能の塊みたいな人、近くにいたら惚れちゃいそうよね」
相良が笑いながら言うと、橋本が缶コーヒーを揺らしながら苦笑交じりに口を挟んだ。
「お前、こないだ『仕事関係者とは絶対付き合えない』って豪語してなかったか?」
「それはそれ、これはこれですよ! ……でもまあ、現実的に考えたら無理かな。一緒にいても、結局は『あの曲のプロモーションどうする?』とか、仕事の話ばっかりになっちゃいそうだし。家でまで仕事モードになるのはキツいわ」
相良の言葉が、柚子の胸にチクリと刺さった。
まさに今、柚子と九条は同じ屋根の下にいる。
そして、彼は柚子が担当するプロジェクトの最重要人物なのだ。
「橋本さんは、奥さんとは学生時代からですよね?」
真下が話題を振ると、橋本は目尻を下げた。
「ああ。嫁さんは音楽業界とは全く無縁の、普通の事務職だからな。家に帰れば仕事の愚痴を聞いてくれるし、俺もオンとオフが切り替えられる。……まあ、真下んとこは、またちょっと違うだろうけどな」
振られた真下は、少しだけ紙コップを見つめ、穏やかに微笑んだ。
「そうですね。うちの妻は、俺が働き始めたばかりの頃に病気で亡くなったので……。今は、息子と二人三脚です。仕事関係の出会いもないわけじゃないですが、やっぱり子供のことが第一ですから、誰かと付き合うとかは、なかなか考えられないですね」
シングルファザーとして仕事と育児を両立させている真下の言葉には、静かな重みがあった。
三者三様の、恋愛と結婚の価値観。
それを聞きながら、柚子は手元の冷たいペットボトルを両手で包み込んだ。
自分と九条の関係は、一体何なのだろう。
恋人同士のような甘い時間を過ごしてはいるけれど、それは『同居人』という危ういバランスの上に成り立っているだけではないのか。
もし、仕事で意見が衝突したら?
もし、彼が曲を書けなくなったら?
相良が言った「仕事関係者とは付き合えない」という言葉が、呪いのように柚子の頭の中で反響していた。
「私、そろそろ行かないと。お先に失礼します!」
柚子は思考を振り切るようにわざと明るく告げ、休憩室を後にした。