深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
 時刻は二十一時を少し回っていた。
 演者を送り出して、構成作家と次回の収録について軽く話をしてスタジオを出た柚子は、夜風に身を縮ませながら、地下鉄の駅に向かって、無意識のうちに歩いていた。
 二本録りの収録は想像以上に神経を使い、ヒールの足は鉛のように重い。

 ふと、日枝神社へと続く長い石段の下に、ハザードランプを点滅させて停まっている車が見えた。
 見覚えのあるその車影に、柚子の脳裏に、九条との会話が掠め、足を止める。
 運転席の窓がスッと開き、九条が少し気怠げな表情で顔を出した。

「……お疲れ様。乗ってください」

「九条さん」

 柚子が助手席に乗り込むと、車内にはブラックコーヒーの匂いが。
 彼の目元には、明らかな疲労の色が滲んでいる。
 トラックダウン作業は、神経を削る過酷なものだったはずだ。

「……わざわざ、すみません。疲れているのに」

 シートベルトを締めながら遠慮がちに言うと、九条は前を向いたまま、ハンドルを握る手に力を込めた。

「俺が、来たくて来たんです。謝らないでください」

「でも、お迎えとか、毎回こんなふうにしなくて平気ですよ? 九条さんは大事な制作期間中なんですから、自分の身体と時間を優先して」

「平気かどうかは、俺が決めます」

 九条の低い声が、車内の空気を一瞬で凍らせた。
 柚子は驚いて隣を見るが、九条の横顔は硬く強張っている。

「柚子さんは……俺と二人になると、どうしてそんなに壁を作るんですか」

「私はただ、九条さんに無理をしてほしくないだけで」

「俺に迷惑をかけたくない? それとも、俺に……恋人として踏み込まれるのが嫌ですか?」

 信号待ちで車が停まる。
 九条が柚子を射抜くような鋭い視線で見つめた。
 その瞳の奥には、会議室でも垣間見た不機嫌な色が、さらに濃く渦巻いていた。

「……真下さんみたいな人なら、」

「え……?」

 予想外の名前が出てきて、柚子は言葉を失う。
 九条はすぐに視線を前へ戻し、青に変わった信号に従って無言でアクセルを踏み込んだ。
 それきり、成城の家に着くまで、二人の間に言葉が交わされることはなかった。

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