深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

第十五話 バウンダリー

 制作発表会の会場は、眩いばかりのシャンデリアの光と、高揚した人々の熱気に包まれていた。

 キャスト、スタッフ、レコード会社を含む製作委員会の各社。
 そして鋭い視線を送るメディア関係者。
 それぞれの領域のプロフェッショナルが入り乱れるその空間は、華やかさと野心が交差する特有の緊張感に満ちていた。

 柚子は完璧な仕事の顔を纏い、橋本と真下の後ろを歩いて会場に入った。
 業界内ではすでに「音楽家『蒼』が自らヴォーカルを担当する」という情報が駆け巡っており、会場の空気は一種の期待感で張り詰めている。
 今日の発表会は、謎に包まれていた蒼というアーティストが、名実ともに表舞台へと踏み出す公式な、お披露目の場でもあるのだ。

 成城の家を、二人は別々に出た。
 九条は車で。
 柚子は遅れて電車で。
 数時間前まで同じキッチンで朝食を摂っていたはずなのに、今の二人の間には、物理的な距離以上に明確な境界線が引かれている。

 会場の隅でドリンクを受け取りながら、柚子はさりげなく室内を見渡した。
 主役級の俳優たちがスタッフに囲まれ、カメラのフラッシュが絶え間なく焚かれる喧騒の中。

 そこに、彼がいた。

 黒のスーツを隙なく着こなし、スタッフらしき男性の隣に立つその姿は、LAMPのカウンターで静かにノートを広げていた男と同じ人物だとは信じがたい。
 冷徹なまでの美しさで、周囲を寄せ付けないオーラを纏っている。
 いつもより少しだけ伸びた背筋と、一切の迷いを感じさせない立ち振る舞い。
 柚子は彼と目が合う前に、意識して視線をグラスの縁へと逸らした。

 仕事に集中。
 自分はただの、宣伝担当。

 自分に言い聞かせるように、彼女は仮面の裏で小さく呼吸を整えた。

 発表会の中盤、会場の熱量はピークに達していた。
 柚子は製作委員会を担う一担当者として向き合い、今後のプロモーションの方向性や、オンエアまでのタイトなスケジュールについて淡々と確認を続けていた。

「野口さん、ここの露出のタイミングですが……」

「ええ、レーベル側としては、蒼さんの歌声解禁に合わせて一気に畳みかけたいと考えています」

 淀みなく言葉を紡ぎながらも、柚子の視界の端が、ある一点の動きを捉えた。

 一人の女性が、九条に向かって迷いのない足取りで近づいていく。
 三十代半ば。
 凛とした立ち姿と、眩いばかりのイブニングドレスを完璧に着こなしたその女性は、この業界でその名を知らない者はいない存在だった。

 渡会麗子(わたらいれいこ)
 数々の名作で主演を務め、今回のドラマでもヒロインの姉を演じるトップ女優。
 彼女が九条に声をかけた瞬間、会場の空気がわずかに震えたのを柚子は感じた。

 九条が、振り返る。
 渡会は彼を見上げ、ひどく親しげに、そして美しく微笑んだ。
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