深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

「あなたが変わらないだけですよ。麗子さん」

 九条の声だった。
 少しだけ柔らかい口調。
 相手を名前で呼び、かつての親密さを隠そうともしないその響きに、柚子の胸の奥がチリりと焼ける。

 渡会は九条の腕に、白く細い指先をそっと添えた。
 それは他人が見れば微笑ましい再会の一場面かもしれないが、今の柚子にとっては、あまりに暴力的なまでの親愛の表現に見えた。

「一緒に仕事出来るなんて、本当に私嬉しいの。今度、ゆっくり話せる? 久しぶりだし、積もる話もあるじゃない」

「仕事の話なら、事務所を通してください。俺が直接決めることではないので」

「んもう、誰が仕事の話って言ったのよ。分かってて言ってるでしょ? 相変わらず意地悪ね」

 九条は淡々と返したが、その言葉に拒絶の色は無い。
 むしろ、相手の性格を知り尽くしているような、諦めに似た穏やかさがある。

 渡会が、悪戯っぽく笑う。
 九条は沈黙したまま、彼女の視線を受け止めている。
 その数秒の会話に、二人が積み重ねてきた——恐らく、柚子の知らない——時間の厚みが凝縮されていた。

 柚子は二人を、十秒ほど見つめていた。
 自分の恋人となった筈のその人が、かつて愛したのかもしれない女性、あるいは深く心を許したかもしれない女性と笑い合っている。
 その事実に打ちのめされるには、十分すぎる時間だった。

 柚子は手に持っていたグラスを、近くのテーブルに置いた。
 硬い音がした気がしたが、会場の音楽がそれをかき消した。
 彼女は九条の方を二度と振り返ることなく、人混みを縫って会場の端へと歩き出した。

 仕事の顔を維持するには、この場所の空気はあまりに眩しく、そして冷たすぎる。
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