深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
明治通りに入った頃、九条が静かに口を開いた。
「渡会さんとは、今は何もありませんよ。信じてください」
「……知ってます」
「過去の話です。それに俺にとってはそんな過去も、意味はありませんよ」
柚子は窓の外を見つめたまま、喉の奥に詰まっていた言葉を吐き出した。
「意味があるかないかは、九条さんが決めることじゃないです」
また沈黙が訪れる。
だが、九条は今度ばかりは引かなかった。
「柚子さんは、嫉妬していますか」
「……してたら、何なんですか。私の勝手でしょう」
「してほしいんです」
「え?」
不意を突かれた柚子が隣を向くと、九条は真剣な眼差しで正面を見据えていた。
「俺は、嫉妬しています。あの地震の夜から、真下さんのことで、ずっと。……だから、柚子さんにも、俺と同じように嫉妬してほしいんです」
あまりにも真っ直ぐで、子供じみた独占欲の吐露。
「……してほしいって、何なんですか。お互い様ってこと?」
「はい。お互い様です」
そんな理屈が通ると思っているのだろうか。
九条の言う嫉妬は、一晩泊めた同僚への一時的な不機嫌に過ぎない。
けれど、柚子が感じているのは、そんな一過性の感情ではなかった。
「……九条さん、渡会さん、本当に綺麗でした」
「……そうですね」
「背も高くて、ドレスも似合ってて。あんな人が隣にいるのが当たり前で、付き合ってて」
「柚子さん」
「すごいな、と思ったんです。九条さんの周りにいる人が、全員、私とは違う世界の人で」
声が震えそうになるのを、懸命に抑え込む。
「成城の大きな家も、この車も、あのスイートルームも。渡会さんみたいな元カノも……。私の『普通』と、全然違う。それがずっと怖かった。いつこの魔法が解けるんじゃないかって、怖かったんです」
柚子の呼吸が荒くなる。
「車、止めてもらえますか」
九条は黙ってブレーキを踏み、高架下の側道へ車体を滑り込ませた。
車が止まると同時に、柚子はシートベルトを外した。
「どこへ行くんですか。……柚子さん!」
「少し、一人になりたいです。ごめんなさい」
追いかけようとする九条の声を振り切り、柚子は助手席のドアを開けて外に飛び出す。
夜の冷たい空気が、熱を持った頬を刺す。
後ろで九条が自分の名前を呼んでいるのが聞こえたが、柚子は一度も振り返ることなく、歩道橋を反対側へと駆け上がる。
『蒼』のいる世界が、今はあまりにも眩しすぎて、直視できなかった。