深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
 あの付箋を握りしめ、声を出して泣いた夜を、九条は一生忘れない。

 あの一行がなければ、今の『蒼』という存在はこの世に生まれていなかった。

 自分以外の人間にとっては、何の意味も持たないただの切れ端。
 何の価値も無い文字列。
 それは今も、書斎の引き出しの奥に、お守りのように大切に仕舞われている。

 そんな彼女と、中目黒で再会した。
 叔父の親友が経営しているという穴場的なカフェ『LAMP』だった。

 九条は、アーティストの『蒼(SOU)』としてではなく、ただの隣人として、カフェの常連として、一席分の距離を保ちながら同じカウンターに座った。

 名前も告げないまま、同じカモミールティーの香りを共有する。

 深夜カフェ常連の彼女は、仕事の顔から解放され、ゆっくりとカモミールティーを飲む。
 無防備な素顔で、マスターや常連客と笑い合っていた。

 その柔らかな声を聞いているだけで、九条の中にあった音楽への渇きが、少しずつ潤っていくのを感じた。

 触れたい。
 話しかけたい。

 名前も告げないまま共有するその静かな時間が、いつしか彼にとってかけがえのないものになっていた。
 
 ただの隣人、ただの常連という仮面を剥がしてしまったら、彼女は自分を仕事相手と看做し、遠ざかってしまうのではないか。

 その恐怖が、九条を臆病にさせていた。

 彼女と、彼女の住む街をイメージして書き始めた曲には、自然と『Chamomile』という名がついた。

 ある土曜日、どうしても我慢できず、勇気を出して未完成のその曲を彼女に聴かせた。

 イヤホンの片方を共有した、あの近すぎる距離。
 彼女のシャンプーの匂いが鼻先を掠め、心臓が破裂するかと思った。

 沈黙のあとで、彼女が零した「派手じゃなくて、日常に寄り添う感じ」という言葉。

 5年前の付箋と同じだ。
 彼女はいつだって、九条が一番欲しかった言葉を、いとも簡単に見つけ出して与えてくれる。

 今、こうして彼女が自分の家に在るのは、不意に起きた地震のせいだった。
 揺れが襲った瞬間、九条の頭には高価な機材のことなど一切浮かばなかった。
 ただ、彼女が一人で怯えているのではないかということだけが、猛烈なパニックとなって九条を突き動かした。

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