深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
 そこから中目黒まで、ただひたすらに歩いた。

 明治通りから駒沢通りに抜け、裏道に入るまで、およそ二十分。
 バッグの中でスマートフォンが幾度も震え、暗い夜道に虚しく着信音を響かせていた。
 九条からだろう。
 けれど、柚子にはそれを見る勇気も、拒絶する気力も残っていなかった。

 歩き始めて間もなく、空が泣き出した。
 最初は、火照った頬をなでるような霧雨だった。
 目黒川沿いの遊歩道に出る頃には、雨は容赦のない本降りに変わっていた。

 レセプションのために履いた高いヒールが、濡れたアスファルトを叩く。
 雨粒が視界を遮り、丁寧にセットしたはずの髪は無残に顔に張り付いた。
 お気に入りのセットアップが水分を吸って重くなり、肌に冷たくまとわりつく。

 ようやく、見慣れた「LAMP」への階段が見えた。
 逃げ込むように地下へと駆け下り、重い扉を押し開ける。

 カウベルの音と共に、芳醇なコーヒーの香りと、守られたような暖かい空気が柚子を包み込んだ。

「――あれ、ゆずちゃん!?」

 一番に声を上げたのは、トシさんだった。

 柚子は扉を閉め、激しい呼吸を整えようと立ち尽くした。
 華やかな会場にいたはずの面影はない。
 髪からは水が滴り、足元には小さな水溜まりができていた。

「どうしたの、ずぶ濡れじゃん! 外、そんなに降ってるの?」

 驚き、席を立ったのは香奈さんだ。
 柚子は震える唇を動かす。

「いきなり、降って来て。傘、なくて……」

 けれど、喉の奥が熱く、せり上がってくる塊のせいで、まともな声にならない。

「……ゆずちゃん?」

 香奈さんが怪訝そうに顔を覗き込む。
 カウンターの奥から、マスターが無言で厚手のタオルを持ってきて、柚子の肩に、大きな手でそっとかけた。
 タオルの、乾いた清潔な温かさが、最後の一線を決壊させた。

 視界が、一瞬で歪んだ。
 こらえようと奥歯を噛み締めたが、涙は溢れて止まらなかった。

「えっ、え、ゆずちゃん、どうしたの? 何があったの!」
 
 トシさんの狼狽した声が遠くに聞こえる。
 その隣で、結城さんが静かに、けれど有無を言わせぬ口調で告げた。

「……泣かせておきなさい」

 柚子はタオルで顔を覆い、子供のように肩を震わせた。
 声は出せなかった。
 溢れ続ける熱い涙が、冷え切った頬を伝い落ちていく。

 ずっと、こらえていた。
 あの豪華すぎるスイートルームのシャワー室で抱いた違和感も、成城の家の広すぎるベッドで感じた孤独も。
 そして今夜、光り輝く会場の端で、遠い世界の住人である九条の横顔を見つめた時の、あの身を切るような絶望感も。

 全部、自分の普通を守るために、なかったことにして笑っていた。

 それなのに。
 つまらない嫉妬心。
 子供みたいな癇癪。
 柚子が必死に繕っていた仮面をすべて粉々に壊してしまった。
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