深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

 停電し、断水し、食料もなく、暗闇で心細くしていたであろう彼女を、自分の安全な領域に引きずり込む口実ができた。

 彼女の同僚の『真下』という男がカフェに辿り着いた時は、殺意に近い嫉妬で頭がおかしくなりそうだったが、結果として彼女をこの成城の家に連れ帰ることができたのだから、今はどうでもいい。

 いや、本当は地震などなくとも、限界だったのだ。
 
 いつか理由をつけて、彼女を自分の視界から逃げられない場所へ閉じ込めていたかもしれない。
 己の心が、もう手に負えないほど彼女に執着していることを、痛いほど自覚していた。

 ソファでスマートフォンを充電していた彼女の表情が、ふと和らぐ。

「充電できると思ってなかったので……仕事のメール沢山きてました」

 少し赤くなった彼女の瞳を見て、この数日間の彼女の消耗を想った。

 何も言わず、ただ温かな雑炊を作って出す。
 彼女がふうふうと息を吹きかけ、一口食べて零した「おいしい」という本心の声が、橙色に染まる夕陽の中に溶けていった。

 その顔を見た瞬間、九条は自分の人生のすべてを懸けて、この笑顔を手放さないと誓った。

 夜になり、恐らく彼女がゲストルームのベッドで眠りについたあと。
 九条は一人、仕事場である書斎にこもった。

 五線譜の上には、今日の午後から書き連ねてきた音符の断片が並んでいる。

 まだ完全な形にはなっていない。

 けれど、彼女がこの家に来てからというもの、筆の進みは驚くほど速い。
 まとまりかけては、また新しい響きが生まれる。
 その繰り返しが、今は心地よい。

 キーボードで音を取り、ギターの弦を弾き、新曲の続きを進めていく。
 やがて、一番難しく、一番深く沈み込むはずの3コーラス目。

 構成上は、偶然にもかつて彼女が「好きだ」と言ってくれたのと同じ、3コーラス目。

 今までどうやっても埋まらなかったその空白の小節に、心の奥から、驚くほど自然に、美しくも切ない旋律が溢れ出してきた。

 ――ああ、そうか。

 九条は、鍵盤に指を置いたまま、静かに目を閉じた。

 あの付箋のメモを書いた張本人が、今、同じ屋根の下で、自分の淹れた茶を飲み、自分の作った飯を食い、無防備な寝顔を見せて眠っている。

 この幸福が、曲にならないはずがなかった。
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