深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
やがて、トシさんがいつになく真面目な顔をして口を開いた。
「ゆずちゃん」
「はい」
「俺さ、ゆずちゃんがこの店にはじめて来た時も、九条さんが最初にここに来た日も、知ってるんだけど」
「そうですね」
「あの人さ。……最初から、ゆずちゃんのことしか見てなかったよ」
柚子の心臓が、ドクンと跳ねた。
「言わなかったけどさ」とトシは言葉を継いだ。
「ゆずちゃんがあの人の正体に気づいてなかった頃、実は、みんな知ってた。俺も一応業界の人間だし。でも誰も教えなかっただろ? なんでか分かる?」
「なんで、ですか」
「九条さんが、ここでだけは『ただの普通のお兄さん』でいられてたからだよ」
柚子は息を呑み、トシの顔を見た。
「渡会さんとかさ、業界の人たちは、みんな彼をアーティストの『蒼』として扱うじゃん。けれど、ゆずちゃんだけが、九条という一人の男として向き合ってた。……それが、あの人にとってどれだけ救いだったか。どれだけ大事なことだったか、分かるだろ?」
香奈さんも、優しく頷きながら言葉を添えた。
「私も同じこと思ってた。この店で見てると分かるのよ。私はまあリアルの九条さんのこと知らないけど。ゆずちゃんの前でだけ、肩の力が抜けて、ちゃんと『素』になってたもの。なんていうの、自然な空気感みたいなの流れてて、あーなんかこの二人似合うなあって」
「……そう、でしたか」
「そうだったわよ」
結城が手元のワインを一口飲み、淡々と、けれど重みのあるトーンで締めくくった。
「格差を怖がる気持ちは分かります。けれど、格差があることと、その男があなたを選んでいることは、全く別の話です」
柚子は結城を見つめた。
「……難しいですね」
「ええ、難しいですよ」
結城はそれだけ言うと、また元の静かな酔客に戻った。
マスターはカウンターの向こうで、変わらぬ手つきでグラスを磨き続けている。
何も語らない。
沈黙は、すべてを肯定してくれているように感じられた。