深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
「また余震ですか? 震度3以下の通知は設定していなくて」
九条が、申し訳なさそうにヘッドホンを外す。
「いえ、違う、違うんです。あの、九条さん、少しだけ、聞いていいですか」
柚子は、混乱しながらも、震える手でスマートフォンの画面を突きつけた。
SNSに写された、蒼の横顔。
「これ……これは、九条さん、ですよね」
一秒、いや、もっと長い沈黙が流れた。
九条は画面を見つめ、それから柚子の目をまっすぐに見返した。
逃げることも、誤魔化すこともしない。
その深く静かな眼差しが、何よりの肯定だった。
「……気づいていましたか」
「さっき、やっと、そうかなって、でもあれ……」
「うん。俺です」
九条の声は、いつも通り穏やかだった。
けれどその声には、秘密を共有できたことへの微かな安堵が滲んでいるようにも聞こえた。
「もしかしてLAMPのみんなは、知ってたんですか」
「マスターは知己なんですよ。亡くなった叔父の。店のオープンパーティには俺も招待されましたし。トシさんは翌日スタジオでばったり会ってしまって」
柚子の喉から思わず、乾いた笑いが漏れた。
トシさんの「どこかで見た顔」という言葉も、結城さんの「そろそろ言ったら」という促しも、マスターの「かもね」という微笑みも。
すべてはこの真実に繋がっていたのだ。
「野口さん」
九条が椅子から立ち上がり、一歩近づいた。
「怒っていますか。俺が黙っていたこと」
怒りよりも先に、眩暈のような混乱があった。
今まで隣に座っていた男が、仕事上の重要人物だった。
と、同時に脳裏を掠める、聴かせてくれた『Chamomile』の旋律。
「怒ったりはしないですけど、えっと……少し、整理させてください」
柚子はそう絞り出すのが精一杯だった。
その夜、柚子は窓際で星空を見上げながら、記憶を何度も上書きした。
豚汁を作ってくれた彼も、Chamomileを紡ぎ出した彼も、すべてが『蒼』というアーティストの断片だったのだ。
同時に、成城学園のこの広すぎる邸宅が、彼の本来の居場所であるという事実も突きつけられた。
中目黒の501号室は、創作のための仮宿に過ぎなかったのだ。
翌朝、キッチンに向かうと、相変わらず早起きな九条がお湯を沸かしていた。
振り返り、目が合う。
その瞳は昨日と変わらず静かだったが、どこか切実な熱を帯びているように見えた。
否、そう思いたかったのかもしれない。
「おはようございます。今日は、カモミールティーにしてみました」