深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
 差し出されたカップを両手で包み、柚子は意を決して尋ねた。

「中目黒に来たのは、仕事のリサーチのためだけ、なんですか」

 九条は自らのカップを手にし、一呼吸置いてから答えた。

「……越してきた理由は、そうです。でも」

 彼は言葉を切り、柚子の目を射抜くように見つめた。

「留まり続けた理由は、仕事だけではありません」

 その含みのある言い方に、柚子の鼓動が跳ねる。
 彼がどれほど言葉を尽くすよりも雄弁に、その視線が想いを語っている。

 そこへ、タイミングが良いのか悪いのか、追い打ちをかけるようにマンションの管理会社から通知が届いた。
 途端にふわふわとした心地から現実へと引き戻され、柚子は文面に目を走らせてから、ううんと唸る。

 彼女が借りているマンションは、今回の震災を受けて、改めの行われた耐震診断の結果、建て替えが検討されているという。
 九条のスマートフォンにも同様のメールが入っているようで、彼は指をスライドさせながら文字を追っていた。

「えええ……」

 柚子の呟きに、九条は迷いなく言葉を返した。

「それなら、ここにいてください」

 提案はあまりに唐突で、けれど重みがあった。

「この家は広すぎますし。自由に使える部屋も余ってますから」

「え、えっと……それは、九条さんにとって重くないですか。それに、私……このまま今抱えている案件が上手く進めば、近い将来『蒼』とも仕事をする可能性が有りますし……」

 柚子の問いに、九条は微かに眉を寄せ、もごもごと言葉を続けようとしている柚子の声を遮る。

「野口さん。私が言いたいのは、便宜上の話だけではないんです」

 一歩、彼との距離が縮まる。

「俺は――野口さんのことが好きです。だから、あなたが、ここにいてくれることを望んでいます。行くところが無いなら尚更」

 短く、飾りのない言葉だが、その中には数年間の沈黙と、この数ヶ月で積み上げた密やかな熱が凝縮されていた。

 九条の瞳には、かつてないほど真っ直ぐな、隠しようのない恋慕が灯っている。

 柚子は呼吸を忘れ、ただ彼を見つめ返した。
 庭の木々が風に揺れ、柔らかな光が二人の間に差し込む。

「えと……少し、考えさせてもらっても……いいですか……」

「ええ、もちろん」

 客室に戻った柚子は、天井を見上げながら自問自答した。
 これは非常事態が生んだ『つり橋効果』ではないのか。
 
 でも、と首を振る。

 Chamomileのデモを聴いた時の震えるような感動も、LAMPで背中を並べて座っていた時の心地よい沈黙も、すべては地震が起きる前のことだ。
 まずいと、感じたあの日の自分を、今更否定することなんて簡単には出来ない。

 再び九条と向き合った時、柚子の答えは決まっていた。

「……あのお言葉に甘えて。ここにいさせてください。それと」

 少し視線を泳がせながら、彼女は続けた。

「……『好きです』の方も」

 その瞬間、九条の顔が、見たこともないほど崩れた。
 まるで透明な仮面が剥がれ落ち、年相応の、一人の男としての歓喜が溢れ出したような、素の笑顔。

「……ありがとうございます」

 その眩しい笑顔を見つめながら、柚子は心の中で苦笑した。
 たとえこれが、つり橋理論の勘違いだったとしても。

 この温度の中にいられるのなら、今は、それでもいいのかも。
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