深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
地下の店内に、雨音と食器の触れ合う音だけが響く。
長い沈黙の後、九条が隣の柚子を真っ直ぐに見つめて言った。
「怒っていますか」
「……怒ってないです」
「泣いていましたか」
柚子は指先に力を込め、数秒の間を置いてから答えた。
「……少し」
「そうですか」
九条の瞳に、深い安堵と痛みが混ざり合う。
「九条さんも、濡れてますよ」
「柚子さんも、濡れています。……酷い顔だ」
柚子はタオルで髪を抑え、少しだけ俯いた。
九条はマスターから差し出されたカップを両手で受け取り、一口、ゆっくりと含んだ。
「カモミールティー」
「……はい」
「柚子さんがいつも、ここで飲んでいるものですね」
「そうです」
九条はもう一度それを飲み、ふっと表情を緩めた。
「おいしいですね」
「……そうですね」
その光景を、カウンターの端で見守っていたトシさんが、香奈さんの耳元で囁く。
「ねえ、仲直りしてるの? まだ喧嘩中?」
「しっ、静かに」
「二人とも、黙りなさい」
結城さんの一言で、再び静寂が戻る。
マスターはただ丁寧に、鏡のように磨き上げられたグラスを棚に戻した。
特別な言葉は何一つ交わされていない。
けれど、同じカモミールティーの香りに包まれ、肩を並べて座る二人の間には、六本木の華やかな夜よりもずっと確かな、温かな温度が通い始めていた。
「俺は、渡会さんより柚子さんの方が好きです」
あまりに直球で、飾り気のない言葉。
けれど柚子は、小さく首を横に振った。
「……そういうことじゃ、ないんです」
「どういうことですか」
柚子は、指先で温かいカップの縁をなぞった。
「渡会さんみたいな人が九条さんの隣にいる方が、なんていうか……自然な気がして。全部が九条さんに釣り合ってるし、似合っているから。でも、私には……このカモミールティーと、LAMPの方が似合っているから」
彼女が引こうとしている境界線。
自分を守るための、臆病な逃げ場所。
九条はしばらくの間、無言で彼女を見つめていた。
雨に濡れた髪が、彼の端正な横顔に影を落としている。
「柚子さん」
「はい」
「『Chamomile』というタイトルの曲を作ったのが誰か、忘れましたか」