深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

第十一話 日常の心拍

 首都を襲った未曾有の震災から二週間。
 完全な復興にはまだ遠そうだが、それでも街は日常を取り戻しつつあった。

 現在、柚子の仕事は専らリモートワーク。
 九条は一日に一回は、中目黒の部屋とは別に、事務所用として借りている神泉のマンションに顔を出している。
 その帰りに、食料品などの買い物を済ませて来てくれるため、柚子は完全なる引きこもり状態だった。

 ――甘やかされている実感はある。

 料理に関する家事は、専ら九条が担当している。
 柚子はせめて皿洗いや風呂掃除、洗濯などを引き受けようとするのだが、だいたい途中で九条に仕事を取り上げられてしまう。

「もう九条さん、甘やかせすぎですよ……」

 付き合って即同棲状態の為、甘い時間よりも日常生活の方に重心が振り切れている。
 それに対しては正直なところ、不満が無い。
 何故なら、柚子の場合久しく恋愛をしていないからだ。

 社会人になって少し経った頃に、大学時代に付き合っていた彼氏と別れてから、だいぶ時間が経過している。

 だからこそ、カフェ交わしてた時のように、501号室で一緒に食事をした時のように、その程度の関りでも柚子としては満足している。

 距離感は少し近づいたかもしれない。

 ただ、まだ九条と、そういう関係(・・・・・・)になっていない。
 つまり、今目の前に居る人と、自分が付き合いはじめたという実感が沸いてこない。

 はじまりの状況が、特殊過ぎたのだ。
 本当にいいのかな、と思いつつ、流されるまま、二週間が経過していた。

 機材の確認や郵便物の整理のために事務所へと向かう九条を送り出した後、柚子はリビングの定位置で仕事をしている。
 リモートワークは移動の煩わしさがない反面、思考が凝り固まりやすい。
 メールを返し、資料をまとめ、ふと一息ついた時、柚子は自分でコーヒーを淹れる。

 九条がいないと、コーヒーはただの苦い飲み物に戻る気がした。
 彼が淹れる一杯がどれほど贅沢な時間だったか、独りになって初めて気づかされる。

 怖いな。
 なんか。

 彼の存在がこれほど速いスピードで当たり前になっていくことに、微かな恐怖と……それ以上の心地よさを感じている自分がいた。

 夕暮れ時、玄関の開く音がして、食材の入ったエコバッグを提げた九条が帰ってきた。

「ただいまもどりました」

「おかえりなさい」

 反射的に返した言葉が、あまりに自然に空間に溶けたことに、柚子は戸惑い、一瞬動作を止めた。

 九条はそんな彼女の機微を逃さず「どうしましたか?」と静かに問いかける。

「……いえ、なんでもないです」

 キッチンへと向かう彼の背中を見送りながら、柚子は冷めかけたコーヒーを啜った。

 付き合って二週間。
 生活を共にするということは、こういう無意識の積み重ねなのだと、彼女は改めて思い知る。

 夕食後の片付けも、最近では一つの攻防戦になっていた。

「もう、これくらいはやらせてください!」

 食後の皿を洗おうとする九条を、柚子はなかば強引に押し退けた。

「無理はしなくていいですよ。仕事、疲れたでしょう」

「九条さんこそ、夕飯まで作って……別に無理してないですもん、代わってください」

 九条は少しだけ困ったように眉を下げたが、柚子の意志が固いことを知ると「……分かりました」と素直に引き下がった。
 
 甘やかそうとする九条と、対等でいようとする柚子。
 恋人のようでもあり、長年連れ添った同居人のようでもある不思議な均衡だ。

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