深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
九条は流れるような動作で、柚子のキャリーバッグを受け取った。
今回、彼はイベントの直接的な関係者ではない。
それなのに「打ち上げ」だなんて、と柚子が可笑しそうに指摘すると、九条は少し真面目な顔をして「俺にとっては、あなたを迎え入れることが大事な仕事ですから」と静かに答えた。
駐車場に停められていた車は、夜の湾岸道路を滑るように走る。
ゲートブリッジを渡り、レインボーブリッジの光が黒い水面に揺れるのを、柚子は助手席から眺めていた。
「サクラさんのステージ、どうでしたか」
「よかったです。……袖で見ていて、泣きそうになりました。自分の仕事に意味があったんだって、教えられた気がして」
「うん」
「三都市回って、オーラスの名古屋が一番でした。慣れてきた分、彼女にも余裕が出てきて……そこに、なんていうか、どーんって彼女らしさが解放されて。お客さんが目の前にいるステージってやっぱり違いますよね。熱量が凄いし、感動もダイレクトに来ますし」
九条はしばらく黙ってハンドルを握っていたが、やがて深い声で言った。
「例えば、気持ちに余白が生まれた時にこそ、受け取る側にもその分の余白が生まれて、良い相乗効果を起こすんだと思います。――今の俺が、そうであるように」
彼が車を止めたのは、お台場の名門ホテルのエントランス。
レストランでの食事、そして用意されていた部屋。
それは、付き合い始めて一ヶ月を記念した、彼なりの精一杯のサプライズらしい。
「あまりこういうのは得意ではないんですが、喜んでほしくて」
少しだけ照れたように笑う彼に誘われ、案内されたのは、東京湾を一望できる最上階のスイートルーム。
宝石を散りばめたような夜景、厚手の絨毯、そして洗練された調度品。
柚子は窓際に立ち、あまりの美しさに言葉を失う。
けれど、その美しさが鮮明であればあるほど、胸の奥にはかすかな違和感が芽生え始めていた。
レストランで供される極上の料理も、彼が選んでくれた好みの白ワインも、すべてが完璧。
おそらく、九条にとっては、これが普通なのだ。
成城の豪邸に住まうこと。
アウディを、日常の足として動かすこと。
このスイートルームだって、彼にとっては当たり前の延長線上に、自然に存在している。
一方で、柚子の普通は、深夜の終電に追われ、二十四時間営業の駅前整体院で身体をほぐし、LAMPの安らぎに浸ることだった。
今夜、二人の間にある埋めようのない距離が、シャンパンの泡のようにくっきりと浮き彫りになっていた。
部屋に戻り、シャワーは一人で浴びさせてもらう。
分厚いタオル、整然と並ぶ高級なアメニティ。
「わあ……一ヶ月分の給料が、一日で消えてるじゃん……これ」
鏡の中の自分に向かって呟いた言葉は、湿った空気の中に虚しく消えた。
九条奏翔という存在が、柚子の中で大きくなっていったのは事実だった。
けれど、この煌びやかな世界に身を置くことで、自分の足元がふらついていくような、落ち着かない感覚が、どうしてもぬぐえない。