深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

 部屋に流れる曲が、ちょうど3コーラス目に入った。
 切なくも美しい、祈りのようなメロディ。
 柚子は、その旋律に心臓を掴まれたような感覚に陥った。
 なぜか、ひどく懐かしい。

「……柚子さん。覚えていますか」

 九条の問いに、柚子は困惑して首を振った。

「……いえ、聴いたことがあるような気はしますけど」

「そうですか。それでいいんです」

 九条は、手のひらに握り込んでいたものを見せた。
 それは、経年劣化で端が少し色褪せた、小さな黄色の付箋だった。
 彼から渡されたそれを見て、柚子の思考が凍りついた。

 そこには、紛れもない自分の筆跡で、たった一行だけ文字が記されていた。

 柚子の心拍が、激しく跳ね上がった。
 彼女はまだ学生で、就職活動の一環として大手レコード会社の制作部でアルバイトをしていた時期があった。
 山のように届くデモテープを整理し、仕分けし、返送するだけの無機質な作業。
 その合間に、どうしても捨てられなかった曲があったこと――。

「これ……私の字。私が、書いた?」
「おそらく。当時、その会社でバイトをしていたあなたが、返送用の封筒に忍ばせたのでしょう。あなたは覚えていないかもしれない。でも、この付箋の一行がなければ、俺はあの日、音楽を捨てていました」

 窓から差し込む朝の光が、柚子の指先を照らす。
 自分が無意識に放った言葉が、一人の青年の絶望を救い、今日の『蒼』という怪物のような才能を繋ぎ止めていた。
 その事実が、驚きと共に重い愛となって押し寄せる。

「……覚えていない言葉で、誰かの人生が変わるなんて」

「変わったんです。俺は、この付箋を書いた人間を探すために、この業界で生きてきたっていったら、まあ嘘になりますけど。生きていく支えではありました。中目黒であなたの隣に住んだのは、確かに偶然だったかもしれない。けれど、隣に住んでいたのがこの付箋を書いた本人だと気づいた瞬間から……俺は、あなたから離れることができなくなった」

 九条が柚子の手をとり、付箋ごと優しく包み込んだ。

「す、捨てていいですか? これ」

「駄目です……俺にとっては大切な『呪い』なので、返してください」

「呪い!? 大切!?」

「ええ。柚子さんが無意識に吐いた言葉という、永遠に解けない呪縛。俺はこれからも、この言葉に縛られ、あなたに縛られていたい」
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