深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
レコーディング作業は昼を挟んで、結局日がすっかり落ちるまで続いた。
スタジオの空気は、一度深く潜り込むと時間の感覚を麻痺させる。
地下に設置されたその閉鎖空間からは、地上の空が茜色に染まろうと、完全に夜の帳に包まれようと、それを知る術はない。
ただ機材が発する一定の熱量と、防音壁が吸い込む沈黙、そして繰り返されるメロディだけが世界のすべて。
その日、最後の一音がスピーカーから消え、新田さんが「今日はここまで」と短く告げたのは、夜の八時を回った頃だった。
結局、十七テイク。
一つの楽曲にそれだけの命を吹き込み続ける作業は、想像を絶する消耗を強いる。
ボーカルブースの重い扉が開き、サクラがふらりと出てきた。
「野口さん、ありがとうございました。お疲れ様でした……」
彼女の目の下には、隠しきれない疲労の影が薄く落ちているものの、瞳は達成感で澄んでいる。
「どうでしたか、今の」
不安そうに尋ねる彼女に、柚子は本心を込めて頷いた。
「良かったです。私はとても好き」
本心からの言葉だ。
A&Rとしての言葉じゃなくて、一人の聴き手としての。
その言葉に、サクラが花開くように微笑む。
「野口さんからそう言ってもらえると、嬉しい」
彼女の明るい声を聞いて、今日一日スタジオにいた意味があると思った。
新田さんとの、今後のスケジュールに関する細かい調整が残っていて、柚子がスタジオを出たのは午後九時過ぎだ。
マスタリングのスケジュール、レーベルへの提出フォーマット、来月のプロモーション会議に向けた資料。
話しながらスマートフォンのメモを更新して、会社に戻るか迷って、結局戻らないことにした。
メールは帰り道で返せるし、と言い訳をしながら。
代官山から中目黒まで歩くと十分くらいの道のり。
駒沢通りのゆるやかな坂を下りていく途中で、住宅街のある脇道に逸れて、川沿いに出る。
この時間の中目黒は好きだ。
おしゃれな街という虚飾を脱ぎ捨て、生活の匂いがする素顔を見せるから。
歩道橋の下には、猫の餌やりにきているおばあさんの背中が見えた。
マンション前に辿り着き、エントランスに向かおうとして、柚子の足が止まる。
疲れているけれど、このまま部屋に戻っても、アドレナリンが引かずに眠れない気がした。
駅前の整体に寄ろうかと考えスマホを手にした瞬間、通りを挟んだ向かいの建物の前に、地下へと続くLAMPの看板が見えてしまった。
扉を開けると、マスターが「珍しいね、この時間に来るの」と言った。
柚子が顔を覗かせるにしては、早すぎる時間だ。
結局、磁石に引き寄せられるように寄ってしまった。
ここはもう、自分にとって第二の我が家と言っても過言ではない。
柚子が顔を出すのは深夜を回ってからだ。
まだ十時前という時間帯は、彼女が顔見知りとなったLAMPの常連たちが集まるには、少し早い。
カウンターには、先客が一人だけいた。
九条だった。
彼はカウンターの端でノートを広げ、何かに没頭していた。
柚子が入ってきた気配に顔を上げて、少し目を細めた。
「早いですね」
「今日はスタジオ仕事だったので直帰しちゃいました」
マスターが何も聞かずにカモミールティーを柚子の前に置く。
しばらくの間、二人の間には心地よい沈黙が流れた。
九条は再びノートにペンを走らせ、柚子はカップから立ち上る香りを胸いっぱいに吸い込む。
この空間での沈黙が苦じゃないのは、最初の頃から変わらない。
マスターは寡黙な人ではないけれど、それぞれの客が今、その瞬間に求めているモノがわかるようだ。
「スタジオって、レコーディングですか」
九条が手を止めずに聞いた。
「そうです。担当してるアーティストさんの」
「うまくいきましたか」
「……今日はそこそこ」
そこそこ、という言葉を使ったのは久しぶりだった。
曖昧な本音。
会社では「問題ありません」か「対応します」しか言わない。
「ディレクターさんが、とにかく妥協を許さない方で」
「それは良いことじゃないですか」
「とっても良いことだとは思います。でも来月頭にマスター上げなきゃいけないのに、今日だけで十七テイクも録ったんです」
九条がペンを置いた。
「十七テイクか……」
「多いですよね。でもその人、本当に耳が良くて。妥協したくない気持ちが分かるから強く言えなくて」
「野口さんはアーティストの味方なんですか、レーベルの味方なんですか」
九条の素朴な疑問に、柚子は考えながら答える。
「どちらでもあって、どちらでもない、というのが正直なところです。どっちかの味方になった瞬間に、A&Rとしては終わる気がするので。どちらかに傾き過ぎないように、天秤を必死で調整している感じです」
「難しい仕事ですね」
「好きじゃなかったら絶対できない、かなあ」
そう答えながらも、疲労の所為か、ため息が零れてしまう。
そんな柚子を見て、九条は少しだけ声を和らげた。
「野口さんが担当してるアーティスト、どんな曲を作るんですか」
仕事の細かい話をここでするつもりはなかった。
ここは日常を切り離す場所だからだ
LAMPのルールとして、というより、切り替えができなくなるのが嫌なのだ。
この場所は、日常から非日常へと自分の存在を変質させる場所。
それなのに九条の落ち着いた声を聞いていると、なぜか話したい気分になる。
「二十三歳の女の子なんですけど、歌い方に変な欲がないんですよ。うまく聴かせようとしない。ただそこに在る、みたいな歌い方で」
「在る、か」
「声で何かを証明しようとしていない感じ、というか。それが聴いてて心地よいんです」
「今日録った曲、どんな感じですか」
「ミディアムテンポで、歌詞がごく日常的。お腹が空いたとか、傘を忘れたとか、そういうことしか歌ってないのに、なぜか泣けてくる曲で」
「なぜ泣けるんだと思いますか」
柚子は、琥珀色に揺れるカップを見ながら、しばらく考えた。
「本当のことを歌っているから、じゃないですかね。背伸びしていない言葉って、なんていえばいいかな……重力があるみたいに、すとんと体に落ちていく、気がして」
九条は何も言わなかった。
ただ、柚子の話を聞いているだけだ。
「A&Rをやってると、たまにそういう奇跡的な曲に出会うんです。理屈じゃなくて、心臓に直接触れられたような感覚。最初にそのデモ音源を聴いたとき、これだと思って。うまく説明できないんですけど」
「うん、説明なんてできなくていいと思いますよ」
九条の声は、夜の帳のように、どこまでも静かだった。
「説明できてしまう感動より、言葉にはできない感動の方が、本物であることが多い」
断言するような台詞に、柚子は確信してしまう。
この人は、音楽の真髄を知っている。
そして、なんらかの形で関わっている。
聴き手としての感性だけではない、生み出す側が持つ特有の感性。
「九条さん、やっぱり音楽やってる人ですよね」
「……なんでそう思いますか」
「だって、感動の捉え方が、作る側の人間の感覚ですもん」
九条は答えなかった。
少し間があって「聴く方が好きです」とだけ言った。
それ以上追求するのは、この場所のルールに反する気がした。
マスターが裏メニューの定番であるラザニアの皿を、ちょうどのタイミングで柚子の前にことりと置いた。