深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
柚子が早めに立ち寄ったのとは反対に、常連たちがLAMPに顔を出し始めたのは、間もなく深夜に差し掛かろうというところだった。
二時間もぼんやりしている事に気が付いたものの、皆が来るとやはり多少は話をしたくて、ずるずると居座ってしまう。
トシさんが「ああ、疲れた! 今日のロケ、予定より三時間も押したよ」と言いながら入ってきて、結城さんが影のように音もなく現れ、無言でいつもの重めの赤ワインを注文した。
最後に入ってきたのは、夜風を纏ったモデルの香菜さんだ。
店内は一気にいつもの深夜の顔へと、彩られていく。
柚子は、そんな活気に満ちた空間の片隅で、先ほどまで九条と交わしていた会話を反芻していた。
本当のことを歌っているから、体に入ってくる。
説明できない感動の方が本物。
九条は柚子の感覚を、確信を持って肯定してくれた。
彼の言葉の静かな余韻が、胸の奥で温かい澱のように沈殿している。
「そういえば、九条さん」
不意に、トシさんがグラスを回しながら九条に声をかけた。
「九条さんって、楽器とかできるんですか? いつもシュッとしてるから、ピアノとか似合いそうだけど」
九条はノートを閉じ、ふっと口角を上げた。
「……少しだけ、嗜む程度に」
「あ、また『少し』だ! この人の『少し』は絶対信用できないんだよなあ」
トシさんが快活に笑い、カウンターを叩く。
「ギター? ピアノ?」
「どちらも、少し」
「じゃあ弾いてくださいよ。マスター、ここギターありましたよね」
「壁に飾ってあるやつ、弾けますよ」
柚子は、九条が丁寧に断るだろうと予想していた。
彼はいつだって、自分の領域に他人が踏み込むことを、柔らかな壁で拒んでいるように見えたからだ。
「じゃあ、鳴らしてみようかな」と立ち上がる姿に、意外だなと思ったのだ。
九条は壁に掛けられていたアコースティックギターを手に取り、椅子に深く座り直した。
弦を弾き、ペグを回す。
指先の無駄のない動き、音の狂いを一瞬で見抜く耳。
九条の慣れた手つきは『少し弾ける』程度の人間には見えなかった。
そして、彼が弦を弾き始めた瞬間、柚子は呼吸するのを忘れていた。
曲は知らない曲だった。
インストで、メロディが静かで、どこか体の奥に忍び込んでくる。
仄かなオレンジ色をした照明の中で、九条の指が弦を押さえて、音が深夜のカフェに溶けていった。
指が弦の上を滑る微かな摩擦音さえもが、完璧な演出見える。
トシさんはビールのグラスを口に運ぶのを止め、食い入るようにその手元を見つめている。
マスターは、グラスを磨く手を止めた。
結城さんが目を閉じたまま、いつもより少し表情が柔らかい。
九条が弾いていたのは一分程度だろうか。
最後の一音が空気中に溶け切るまで待ってから、九条は静かにギターを再び壁へと戻した。
「それ、少しじゃないじゃないですか」とトシさんが言った。
「趣味程度です」
九条は相変わらずの調子で、平然と言ってのけ、再び自分の席に戻った。
柚子は、自分の心臓がいつもより少し早く脈打っているのを感じていた。
さっきのメロディは、どこかで聴いた気がした。
いや、聴いたことは恐らくないのだけれど。
自分が九条に伝えていた音楽観と、同じ空気感の旋律。
「九条さん」
気づいたら、彼の名前を読んでいた。
「その曲、あなたが作ったんですか」
九条は一瞬だけ、視線を宙に迷わせた。
「いいえ」
そうか、と思いながらも、何かが引っかかったまま、カモミールティーの残りを飲んだ。
「今日、野口さんが録った曲、聴いてみたいです」
唐突な返しに思わず、瞳を瞬かせる。
「さっきの話を聞いて、興味が湧きました。そのアーティストが歌う『本当のこと』を、俺も聴いてみたい」
「……リリースされたら、ぜひ、聴いてください」
「楽しみにしてます」
趣味程度で、あの音は出ない。
空間を支配するような音。
柚子はそれをもう一度頭の中でなぞって、答えを出す前に、トシさんが「腹減った」と言い出したので、考えるのをやめた。
ラザニアの最後の一口を口に運ぶ。
九条の奏でた旋律の残像が、深夜の時間に混ざり、ゆっくりと消えていくのを惜しみながら。