深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
第十四話 仕事の顔
プロダクション会議室で行われた制作発表会の打ち合わせは、異例の熱気に包まれていた。
地震の影響で一時中断していたドラマプロジェクトだったが、再始動にあたって強力な追い風が吹いている。
劇中音楽担当の『蒼』側が、かつてないほどの意欲を見せていたのだ。
彼は正式な発注を待たずして、劇伴のメインテーマを含む数曲を既に書き上げてきていた。
会議室のスピーカーから、蒼が持ち込んだ音源が流れる。
柚子は資料をめくる手を止め、その旋律に意識を奪われた。
いつだったか、単音で聴いた『Chamomile』の世界は、大きな広がりを見せていた。
ダビング作業を重ねた曲は、いくつもの音源が丁寧に、そして執拗に重ねられている。
繊細なピアノの音色。ストリングスにベース、弦、ドラム、生活音のような音も忍び込んでいる。
九条が深夜まで向き合い、削り出していた音そのものだった。
劇伴としての完成度はもちろん、物語の深淵に触れるようなその音の力に、制作サイドの面々も感嘆の息を漏らした。
だが、真下が告げた目玉の情報は、さらにその上を行くものだった。
「正式にOKが出ました。今回、主題歌の制作も蒼さんが引き受けてくださることになりました。しかも——」
真下が、柚子の方を向いて誇らしげに続けた。
「蒼さんご本人が、ヴォーカルを務めてくださいます」
会議室が、一気にざわめきに包まれた。
音楽家としての『蒼』がその歌声を披露したのは、過去に一度、動画配信サイトの『THE FIRST TAKE FOR U』に出演した際のみ。
顔を隠したまま放たれたその唯一無二の歌声は、瞬く間に数千万再生を記録し、今や伝説となっている。
その彼が、歌う。
これがどれほど大きな事件か、業界に身を置く者なら誰もが理解できた。
柚子は、思考が真っ白になった。
成城の家で毎日顔を合わせ、一緒に食事をし、名前で呼ばれ、肌を重ねるほどの距離にいた。
それなのに、彼が歌うことも、そんな大役を引き受けていたことも、今の今まで何も知らされていなかった。
驚きと、置いていかれたような微かな寂しさが胸を突く。
そんな柚子の動揺を知ってか知らずか、会議室のドアが開き、九条奏翔――蒼――が姿を現した。
ジャケットを端正に着こなし、整えられた髪の隙間からのぞく瞳は、理知的だった。
昨夜まで同じ屋根の下にいた恋人の甘い顔とはまるで別人のような、圧倒的なオーラを纏った佇まい。
九条の視線が柚子を捉え、一秒だけ止まる。
けれど、その視線はすぐに彼女の隣に座る真下へと移った。
ほんの一瞬の、刺すような沈黙。
九条は、真下の顔を鮮明に覚えている。
あの地震の夜、大門から歩いてきたという陽気な声。
柚子が「同僚です」と言って、彼女のプライベートな領域に一晩泊めた男。
吸い込まれるようにして、隣の部屋のドアに入っていったあの男の背中を、彼は一度も忘れたことはなかった。
「――蒼です。本日は、よろしくお願いします」
九条は静かに一礼し、制作サイドの正面に腰を下ろした。
地震の影響で一時中断していたドラマプロジェクトだったが、再始動にあたって強力な追い風が吹いている。
劇中音楽担当の『蒼』側が、かつてないほどの意欲を見せていたのだ。
彼は正式な発注を待たずして、劇伴のメインテーマを含む数曲を既に書き上げてきていた。
会議室のスピーカーから、蒼が持ち込んだ音源が流れる。
柚子は資料をめくる手を止め、その旋律に意識を奪われた。
いつだったか、単音で聴いた『Chamomile』の世界は、大きな広がりを見せていた。
ダビング作業を重ねた曲は、いくつもの音源が丁寧に、そして執拗に重ねられている。
繊細なピアノの音色。ストリングスにベース、弦、ドラム、生活音のような音も忍び込んでいる。
九条が深夜まで向き合い、削り出していた音そのものだった。
劇伴としての完成度はもちろん、物語の深淵に触れるようなその音の力に、制作サイドの面々も感嘆の息を漏らした。
だが、真下が告げた目玉の情報は、さらにその上を行くものだった。
「正式にOKが出ました。今回、主題歌の制作も蒼さんが引き受けてくださることになりました。しかも——」
真下が、柚子の方を向いて誇らしげに続けた。
「蒼さんご本人が、ヴォーカルを務めてくださいます」
会議室が、一気にざわめきに包まれた。
音楽家としての『蒼』がその歌声を披露したのは、過去に一度、動画配信サイトの『THE FIRST TAKE FOR U』に出演した際のみ。
顔を隠したまま放たれたその唯一無二の歌声は、瞬く間に数千万再生を記録し、今や伝説となっている。
その彼が、歌う。
これがどれほど大きな事件か、業界に身を置く者なら誰もが理解できた。
柚子は、思考が真っ白になった。
成城の家で毎日顔を合わせ、一緒に食事をし、名前で呼ばれ、肌を重ねるほどの距離にいた。
それなのに、彼が歌うことも、そんな大役を引き受けていたことも、今の今まで何も知らされていなかった。
驚きと、置いていかれたような微かな寂しさが胸を突く。
そんな柚子の動揺を知ってか知らずか、会議室のドアが開き、九条奏翔――蒼――が姿を現した。
ジャケットを端正に着こなし、整えられた髪の隙間からのぞく瞳は、理知的だった。
昨夜まで同じ屋根の下にいた恋人の甘い顔とはまるで別人のような、圧倒的なオーラを纏った佇まい。
九条の視線が柚子を捉え、一秒だけ止まる。
けれど、その視線はすぐに彼女の隣に座る真下へと移った。
ほんの一瞬の、刺すような沈黙。
九条は、真下の顔を鮮明に覚えている。
あの地震の夜、大門から歩いてきたという陽気な声。
柚子が「同僚です」と言って、彼女のプライベートな領域に一晩泊めた男。
吸い込まれるようにして、隣の部屋のドアに入っていったあの男の背中を、彼は一度も忘れたことはなかった。
「――蒼です。本日は、よろしくお願いします」
九条は静かに一礼し、制作サイドの正面に腰を下ろした。