深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
会議が終わり、参加者が席を立ち始める中、九条は自然な足取りで柚子の隣に立つ。
「お疲れ様でした。九条さんの仕事の顔、初めて見ました」
「うん、俺もですよ。初めて見ました」
「はい。……それに、歌うなんて。聞いてなかったから、本当に驚きました」
少しだけ責めるような、戸惑ったような柚子の視線を受け、九条はわずかに表情を和らげた。
「……驚かせたかったわけではありませんが」
その甘い囁きを遮るように、真下が背後から声をかけてくる。
「野口さん、お先に。蒼さんも、素晴らしい音源ありがとうございました。なんかあの夜にお会いしてたのがウソみたいで……こんなことってあるんですね! 主題歌の方も期待しています」
「お疲れ様でした、真下さん」
「……こちらこそ」
真下が部屋を出るまで、九条は再び無愛想な表情に戻り、一言も発さなかった。
彼が消えたのを確認してから、九条は柚子を促すように歩き出す。
「一緒に、帰れますか?」
その声は、いつもよりずっと低い。
「この後、ラジオの収録あるんです……二本録りに立ち会わないとで」
眉を下げた柚子の頬に、九条がそっと手を添えた。
「それなら俺もスタジオでトラックダウン作業します。柚子さん場所どこですか?」
「私は赤坂と溜池山王の間あたりです。日枝神社のむかい」
「ん、あとで迎えに行きます」
「九条さんも近くのスタジオ?」
「芝公園の方ですよ」
九条の言葉に、柚子は頭の中で地図を広げる。
遠くは無いが、そんなに近くも無い。
それにトラックダウン作業は、時間をきっかり区切って出来るものでもない。
「私たぶん二時間くらいで終わっちゃいます……三十分構成を二本なので」
「じゃあ二十一時頃ですね。思考リセットするのに、スタジオから出る時間も大切なんですよ。だから俺のため」
迷惑かける、申し訳ない、と困った顔で続けた柚子に、九条は耳元で囁きを落とし、それから、一瞬だけ唇が柚子の耳たぶを掠めた。
弾かれたように顔を上げた柚子の頬が、赤く染まりゆくのを確認し、満足したように「のちほど」と、地下駐車場へ続く階段を降りて行った。
九条が去った後には熱を帯びた空気が、残されていた。
無事に大きな山場を越え、安堵の息を吐きながら、柚子は自分のデスクに戻ると、ラジオ収録の準備のために足早に資料をまとめる。
メール添付で届いていた台本を五部コピーすると、SNSに掲載する動画を撮影するための社用スマホの充電を確かめ、荷物を抱え、ペットボトルに手を伸ばした。
中身が殆ど無い。
会社を出る前に、休憩室の自動販売機へ向かうと、そこにはすでに真下と、橋本、そして女性広報の相良がコーヒー片手に談笑していた。