深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

 三十代半ば。
 凛とした立ち姿と、眩いばかりのイブニングドレスを完璧に着こなしたその女性は、この業界でその名を知らない者はいない存在だった。

 渡会麗子(わたらいれいこ)。
 数々の名作で主演を務め、今回のドラマでもヒロインの姉を演じるトップ女優。
 彼女が九条に声をかけた瞬間、会場の空気がわずかに震えたのを柚子は感じた。

 九条が、振り返る。
 渡会は彼を見上げ、ひどく親しげに、そして美しく微笑んだ。

 それに対する九条の反応に、柚子の心臓が微かに痛む。
 九条は驚いたように少しだけ目を丸くし、それから——これまで一度も見たことのないような、懐かしさと親愛の混じった柔らかな表情を見せたのだ。

「……野口さん?」

 目の前の担当者が、返事の途切れた柚子の顔を覗き込んだ。

「あ、すみません。……続けてください」

 慌てて視線を資料に戻したが、一度乱れた動悸は収まらなかった。
 昨日、自分の事を時間をかけ丁寧にそして少し意地悪く抱いた彼が、今、自分には見せたことのない種類の微笑みを別の女性に向けている。

 仕事上の儀礼的な笑みには見えない。
 過去を共有している者同士の顔だった。

 華やかな宴会場の喧騒が、遠くの波音のように遠ざかる。
 さっきまで完璧だったはずの仕事用の仮面が、内側からじわりと熱を帯びていくのを、柚子は止めることができなかった。

 レセプションに切り替わり、会場の空気はよりいっそう密度を増していく。
 公式な発表が終わった解放感と、人脈を広げようとする招待客たちの野心が混ざり合い、あちこちでグラスの触れ合う音が響く。

 柚子は半分ほど残ったドリンクを手に、仕事相手を探して会場を移動していた。
 そのとき、喧騒の隙間から、今の自分にはひどく遠く感じる声が鼓膜を打った。

「カナデくん(・・・・・)……じゃなくて、蒼くん(・・・)か。本当に変わらないね。今、何歳になったの?」

 その声の主を確認するまでもなく、柚子の足は止まった。
 人混みの向こう、少しだけ照明の落ち着いた壁際で、渡会麗子と九条奏翔が向き合っていた。

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