深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

 ベルが静かに鳴り、扉が開いた。
 そこに立っていたのは、九条だった。
 つい先ほどまで、すっきりと整えられていた髪は、無惨に雨に濡れ、どっしりと重く湿っている。

 九条は店内の空気に一瞬だけ目を細め、カウンターに座る柚子の姿を見つけると、その場で動きを止めた。
 柚子もまた、息を呑んで彼を見つめ返す。

 トシさんが「あ」と間の抜けた声を漏らし、香奈さんが「わー……」と、すべてを察したような溜息をついた。
 結城さんは視線を動かさず、ただ静かにワインを喉に流し込む。
 マスターだけがいつも通り「いらっしゃい」と短く告げ、新しいカップを用意した。

 九条は迷いのない足取りで近づくと、柚子のすぐ隣に座った。
 そこにはもう、かつて彼が頑なに守っていた一席分の空白はない。
 濡れた袖が柚子の腕に触れ、冷たい水の感触と、彼特有の清廉な香りが混じり合って届く。

「……歩いてきたんですか」

 柚子が掠れた声で問うと、九条は前を向いたまま「はい」とだけ答えた。
 車を放り出し、降りしきる雨の中を彼女の姿を求めて彷徨っていた。
 その事実を語るには、彼の濡れた肩と乱れた髪だけで十分だった。

 トシさんが隣の香奈さんを伺うように見、視線を交わす。
 結城さんは三杯目のワインを静かに楽しみ、マスターは九条の肩にそっと厚手のタオルをかけた。

 地下の店内に、雨音と食器の触れ合う音だけが響く。
 長い沈黙の後、九条が隣の柚子を真っ直ぐに見つめて言った。

「怒っていますか」

「……怒ってないです」

「泣いていましたか」

 柚子は指先に力を込め、数秒の間を置いてから答えた。

「……少し」

「そうですか」

 九条の瞳に、深い安堵と痛みが混ざり合う。

「九条さんも、濡れてますよ」

「柚子さんも、濡れています。……酷い顔だ」

 柚子はタオルで髪を抑え、少しだけ俯いた。
 九条はマスターから差し出されたカップを両手で受け取り、一口、ゆっくりと含んだ。

「カモミールティー」

「……はい」

「柚子さんがいつも、ここで飲んでいるものですね」

「そうです」

 九条はもう一度それを飲み、ふっと表情を緩めた。

「おいしいですね」

「……そうですね」

 その光景を、カウンターの端で見守っていたトシさんが、香奈さんの耳元で囁く。

「ねえ、仲直りしてるの? まだ喧嘩中?」

「しっ、静かに」

「二人とも、黙りなさい」

 結城さんの一言で、再び静寂が戻る。
 マスターはただ丁寧に、鏡のように磨き上げられたグラスを棚に戻した。
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