深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

 特別な言葉は何一つ交わされていない。
 けれど、同じカモミールティーの香りに包まれ、肩を並べて座る二人の間には、六本木の華やかな夜よりもずっと確かな、温かな温度が通い始めていた。

「俺は、渡会さんより柚子さんの方が好きです」

 あまりに直球で、飾り気のない言葉。
 けれど柚子は、小さく首を横に振った。

「……そういうことじゃ、ないんです」

「どういうことですか」

 柚子は、指先で温かいカップの縁をなぞった。

「渡会さんみたいな人が九条さんの隣にいる方が、なんていうか……自然な気がして。全部が九条さんに釣り合ってるし、似合っているから。でも、私には……このカモミールティーと、LAMPの方が似合っているから」

 彼女が引こうとしている境界線。
 自分を守るための、臆病な逃げ場所。

 九条はしばらくの間、無言で彼女を見つめていた。
 雨に濡れた髪が、彼の端正な横顔に影を落としている。

「柚子さん」

「はい」

「『Chamomile』というタイトルの曲を作ったのが誰か、忘れましたか」 柚子は、言葉に詰まった。
 深夜、彼が打ち込んでいた譜面。
 ここのカウンターで広げられていたノート。
 あの曲の旋律が、脳裏を掠める。

「貴女をずっと見ていて、作った曲です。この場所で、隣に座ってカモミールティーを飲んでいるあなたを見ていて、生まれた曲なんだ」

 九条の声はどこまでも静かで、だからこそ、誤魔化しようのない熱がこもっていた。

「俺の隣に誰が似合うか。……それは、俺が決めます」

 柚子は、視界が滲むのをこらえ、ただ手元のカップを見つめていた。
 豪華なスイートルームや銀幕のスター。
 そんな遠い世界のものよりも、今、自分の隣で雨に濡れながら、ぽつぽつと言葉を落とすこの男を信じたかった。

「……柚子さん」

「はい」

「柚子さんは、俺のことを、名前で呼んでくれないんですか?」

 柚子は一呼吸置き、震える唇を噛んでから、勇気を振り絞ってその名を呼んだ。

「……奏翔(かなで)さん」

「うん」

 初めて口にした彼の名前は、思っていたよりもずっと、自分の中にしっくりと溶け込んだ。

「奏翔さん……のこと、ちゃんと教えてください。……怖いので。知らないことが、一番怖いから」

「教えます。過去も今も、全部。貴女が望むなら」

「全部、ですよ」

「ええ、全部です」

 九条は深く頷いた。
 LAMPの夜は、土砂降りの雨の音を遠くに聞きながら、ゆっくりと、深い深夜へと向かっていく――。




< 86 / 99 >

この作品をシェア

pagetop