深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
特別な言葉は何一つ交わされていない。
けれど、同じカモミールティーの香りに包まれ、肩を並べて座る二人の間には、六本木の華やかな夜よりもずっと確かな、温かな温度が通い始めていた。
「俺は、渡会さんより柚子さんの方が好きです」
あまりに直球で、飾り気のない言葉。
けれど柚子は、小さく首を横に振った。
「……そういうことじゃ、ないんです」
「どういうことですか」
柚子は、指先で温かいカップの縁をなぞった。
「渡会さんみたいな人が九条さんの隣にいる方が、なんていうか……自然な気がして。全部が九条さんに釣り合ってるし、似合っているから。でも、私には……このカモミールティーと、LAMPの方が似合っているから」
彼女が引こうとしている境界線。
自分を守るための、臆病な逃げ場所。
九条はしばらくの間、無言で彼女を見つめていた。
雨に濡れた髪が、彼の端正な横顔に影を落としている。
「柚子さん」
「はい」
「『Chamomile』というタイトルの曲を作ったのが誰か、忘れましたか」 柚子は、言葉に詰まった。
深夜、彼が打ち込んでいた譜面。
ここのカウンターで広げられていたノート。
あの曲の旋律が、脳裏を掠める。
「貴女をずっと見ていて、作った曲です。この場所で、隣に座ってカモミールティーを飲んでいるあなたを見ていて、生まれた曲なんだ」
九条の声はどこまでも静かで、だからこそ、誤魔化しようのない熱がこもっていた。
「俺の隣に誰が似合うか。……それは、俺が決めます」
柚子は、視界が滲むのをこらえ、ただ手元のカップを見つめていた。
豪華なスイートルームや銀幕のスター。
そんな遠い世界のものよりも、今、自分の隣で雨に濡れながら、ぽつぽつと言葉を落とすこの男を信じたかった。
「……柚子さん」
「はい」
「柚子さんは、俺のことを、名前で呼んでくれないんですか?」
柚子は一呼吸置き、震える唇を噛んでから、勇気を振り絞ってその名を呼んだ。
「……奏翔さん」
「うん」
初めて口にした彼の名前は、思っていたよりもずっと、自分の中にしっくりと溶け込んだ。
「奏翔さん……のこと、ちゃんと教えてください。……怖いので。知らないことが、一番怖いから」
「教えます。過去も今も、全部。貴女が望むなら」
「全部、ですよ」
「ええ、全部です」
九条は深く頷いた。
LAMPの夜は、土砂降りの雨の音を遠くに聞きながら、ゆっくりと、深い深夜へと向かっていく――。