深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
第十六話 はじまりの言葉
濡れたコートを脱ぎ捨ててリビングのソファに深く腰を下ろすと、ようやく張り詰めていた糸が緩やかに解けていくのを感じた。
九条は「お茶を淹れます」とだけ言い残し、キッチンへと消える。
柚子は手渡された厚手のタオルで湿った髪を押さえながら、暗い庭を眺めていた。
ガラス窓を叩く雨は、まだ止みそうにない。
独りきりで歩いた中目黒の夜道とは違い、今の背後には確かな体温と、微かな湯気の気配があった。
やがて、テーブルに二つのカップが置かれた。
立ち上るのは、カモミールの香りだ。
九条は迷うことなく、柚子のすぐ隣に座った。
かつて彼が頑なに守っていた一席分の空白は、もうどこにも存在しなかった。
「俺の話を聞いてください。上手く話せるかは判りませんけれど」
九条の低い声が、静かな部屋に響く。
柚子もまた、逃げずに彼を見つめ返した。
九条は視線を正面のテーブルに落とし、記憶を辿るように話し始めた。
「渡会さんとは、共通の知人の集まりで知り合いました。音楽と映像の仕事が重なる現場で、何度か顔を合わせるうちに……確か、知り合って二ヵ月ほどで、お付き合いを始めました」
想像していたことだが、事実として本人から語られる言葉は、鋭く心を抉ってくる。
「どのくらい、お付き合いされていたんですか」
「……半年くらいかな。……別れを切り出したのは、彼女からでした」
意外だった。
あの美しい人が、同じように美しい彼を手放したという事実。
「どうして?」
「……俺が、彼女と上手く向き合えていなかったんだと思います。当時は仕事が最優先で、約束を破ることも、予定を変更することも多かった。けれど、彼女が嫌だったのは、おそらく物理的な時間のことだけじゃなかった、と今は思っています」
九条は一度言葉を切り、深く呼吸をした。
「彼女は、俺のことを本気で好きでいてくれた……と思います。でも俺は——誰かと本気で向き合うことから、逃げていた。好ましいとは思っていても、踏み込まれるのを拒んでいたんです。自分の領域に」
柚子は、ただ黙って彼の横顔を見つめた。
かつて彼がLAMPで纏っていた、あの透明な壁。
それは自分を守るための、そして誰かを傷つけないための孤独だったのかもしれない。
九条は「お茶を淹れます」とだけ言い残し、キッチンへと消える。
柚子は手渡された厚手のタオルで湿った髪を押さえながら、暗い庭を眺めていた。
ガラス窓を叩く雨は、まだ止みそうにない。
独りきりで歩いた中目黒の夜道とは違い、今の背後には確かな体温と、微かな湯気の気配があった。
やがて、テーブルに二つのカップが置かれた。
立ち上るのは、カモミールの香りだ。
九条は迷うことなく、柚子のすぐ隣に座った。
かつて彼が頑なに守っていた一席分の空白は、もうどこにも存在しなかった。
「俺の話を聞いてください。上手く話せるかは判りませんけれど」
九条の低い声が、静かな部屋に響く。
柚子もまた、逃げずに彼を見つめ返した。
九条は視線を正面のテーブルに落とし、記憶を辿るように話し始めた。
「渡会さんとは、共通の知人の集まりで知り合いました。音楽と映像の仕事が重なる現場で、何度か顔を合わせるうちに……確か、知り合って二ヵ月ほどで、お付き合いを始めました」
想像していたことだが、事実として本人から語られる言葉は、鋭く心を抉ってくる。
「どのくらい、お付き合いされていたんですか」
「……半年くらいかな。……別れを切り出したのは、彼女からでした」
意外だった。
あの美しい人が、同じように美しい彼を手放したという事実。
「どうして?」
「……俺が、彼女と上手く向き合えていなかったんだと思います。当時は仕事が最優先で、約束を破ることも、予定を変更することも多かった。けれど、彼女が嫌だったのは、おそらく物理的な時間のことだけじゃなかった、と今は思っています」
九条は一度言葉を切り、深く呼吸をした。
「彼女は、俺のことを本気で好きでいてくれた……と思います。でも俺は——誰かと本気で向き合うことから、逃げていた。好ましいとは思っていても、踏み込まれるのを拒んでいたんです。自分の領域に」
柚子は、ただ黙って彼の横顔を見つめた。
かつて彼がLAMPで纏っていた、あの透明な壁。
それは自分を守るための、そして誰かを傷つけないための孤独だったのかもしれない。