深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
「え……逃げてないですよ」
「さっき、俺を置いて車から降りたじゃないですか。こんな雨の中を、一人で」
「それは、一人になって考えたくて」
「あの店に逃げましたよね」
「逃げたんじゃなくて、帰りたかっただけで……雨降って来たし……終電も行っちゃってたし」
言い訳を重ねる柚子の声を封じるように、九条が立ち上がった。
逃げ場を失った柚子は、半歩後ろに下がる。
けれど九条はその距離を許さず、掴んだ手首をぐいと自分の方へ引き寄せた。
「いい加減、逃がしません。何度言えばわかるんですか」
「っ……」
引き寄せられた先には、九条の広い胸板があった。
完璧なアーティストとしての仮面はどこかに捨ててきたのだろう。
目の前にいるのは、泥臭いほど一人の女性を欲し、余裕を失くした一人の男だ。
九条の腕の中に閉じ込められ、柚子は彼の少しだけ早い鼓動を肌で感じた。
「柚子さん、ここにいてください。俺の目の届く場所に」
「い、いますよ!? もう。こうして捕まっています!」
「この先も、ずっとです。どこへ行くにしても、俺の隣に」
柚子は観念したように、彼の胸に額を預けた。
カモミールの香りと、彼自身の清潔な香りが混じり合う。
窓の外で降り続く雨が、世界を二人きりにしているような錯覚に陥る。
「奏翔さん。もし、私が本当にいなくなったら、追いかけてきますか」
「必ず。地獄の果てまででも探し出します」
「絶対に?」
「絶対に」
あまりに重く、けれど救いのような断言に、柚子の唇から微かな笑みがこぼれた。
「……じゃあ、もう逃げても無駄ですね。世界中のどこにいても」
「無駄です。最初から、選択肢なんてないと思ってください」
九条の腕に力がこもる。
夜が更けていく中、二人の影はリビングの床に長く、深く重なっていた。