アングレカム-Angraecum Leonis-
第八話鳴き声の世界
夏になると自然と鳴り響く蝉の鳴き声がまるでこの世界を包んでいるような気がする。一体どこまでこの鳴き声は聞こえるのかどうかが不透明な訳で、小さい頃からこの不思議に疑問符をつけていた。
知らない間に聞こえなくなり、知らない間に聞こえていて。
本当にこの世界は蝉にでも征服されてしまったのではないか。
そう子供心ながらにも思っていた昔の話はさて置いて、夏休みまで後三日に迫った本日。
さくらはいつもと変わらない朝を迎え、いつもと変わらない通学路でいつもと変わらないメンツと巡り合い、そのまま学路を辿る。
あと三日もしたら夏休み。実感なんていつも沸きはしないのに、ただ休みという単語を聞くだけで、長期休みだと言うだけで学生達のワクワクは止まらずにいた。
学校に着き、さくらは時間が余っていたので、図書室へと歩いて行った。なんとなく小説を借りたかった。
何の本を読もうかと。それだけを考え、廊下を歩いて、教室から少し距離のある図書室へと辿り着く。
引き戸を開け、そのままいつも読んでいる本のコーナーへ。この前はこれを読んだ。だから今度はこれを読もう。いや、それとも……。そう考えながらいつものコーナーに着き、朝のHRまでの少ない時間に本を探そうとする。
「……なににしようかな。この前はこれやったけど……んー、悩むなぁ」
さくらが腕を抱え悩んでいると背中になにかが軽くぶつかる。そのなにかはりゅうのすけであった。
「……お、さくちゃんじゃん。ごめんな、ちょいよそ見してたわ」
「りゅうくん? ああ、いいよ。おはよ」
「うん、おはよ。どれか借りるの?」
「そうなんだけど、少し悩んでるんだ」
「なら、俺のオススメでも読んでみるか?」
「そんなのあるの? ……んー、そうだね。うん。教えて!」
さくらはそう言い、りゅうのすけの言う“オススメ”の元へとりゅうのすけと一緒に向かう。
「つーか、高校生にもなってアンパンマンの絵本なんて読むのさくらくらいやぞ」
「え、あはは……」
「まぁ、アンパンマン案外おもろいけど
……ほら、あったこれ」
さくらはりゅうのすけに手渡された本の表紙に書かれたタイトルを小さく読み上げる。
「……アングレカム ……?」
「今度映画化するやつ。まー、俺は読んだ事ねえけど女子の間で人気になってるやつ」
「……え? りゅうくん読んだことないの!?
読んだ事ないのにオススメってどういう事!?」
「ねーよ。俺が本読むと思うか?
漫画さえあんま読まねえんだぞ?」
「……知らないよそんなこと……。ま、いいや。これ借りるよ。りゅうくん、ありがと」
「おう」
「あ、そう言えばりゅうくんはなんで図書室に?」
「……たまには自分じゃ行かないとこ行って気分転換でもしようかなって」
「へー」
「ほら。いいからさっさと借りてこいよ。でないとチャイム鳴っちまうぞ?」
「そだね。行ってくる」
蝉の鳴き声が包むこの世界の中、男女2人はいつもと変わらない世界を生きていた。何事も無いように、蝉の鳴き声がこの世界を包んでいたとしても、征服していたとしても何の変化もないように、2人は自分達のまま過ごし、生きていた。
借りてきた本を大事そうに持ち、教室へと歩くさくらを見ながらりゅうのすけは声をかけた。
「そういや、さくちゃん。今日なんか予定ある?」
「……今日? んーっと……あっ、今日は弟を連れてアンパンマンショー観に行くの!」
思い出した様に目を輝かし、りゅうのすけの顔を見る。
「……お前、ほんとアンパンマン好きだな」
少し距離感の近いさくらに頬を軽く染め、鼻で笑いながらそう言う。
「えへへ、うん! 好き!
ほら、さくらの付けてるヘアピンもアンパンマンなんだよ?」
「へぇ、いいじゃん、似合ってる。
……また今度アンパンマンミュージアムでも行くか」
「え! 行きたい! 行こ! 他誰か誘う?」
「……そうやな。また決めとくわ」
「うん! わかった! またねりゅうくん!
ありがと! バイバーイ!」
さくらはりゅうのすけに手を振りながら図書室を出て、階段を駆け上って行く。りゅうのすけはその背中を見ながらどこか虚しく、どこか嬉しそうにしながら、自分の教室へと戻って行った。
また今日が始まった。