この恋、予定外。
私は小さく息を吐いた。ため息ではない、今日という日を乗り切るための気合いのため息。

「……仕事しよ」

声に出す必要はないのに、わざわざ口にしてしまう。


そう。今日はただの外回りだ。
それ以上でも、それ以下でもない。

昼前。最終確認を終えて席を立つ。
バッグの中身を確かめ、タブレットとサンプルを揃え、深く息を吸う。


「よし!」

小さく気合いを入れて顔を上げた、その瞬間。

「森川ー」

私を呼ぶ声がだいぶ後ろから聞こえて、ふっと口が緩んでしまった。

考えるより先に分かる。
離れたところに高橋さんが立っていた。たぶんもう、すぐにでも出られる状態だ。

片手はポケットに手を突っ込んで、もう片方の手は鞄を持っている。


「準備できてるかー、先に外にいるからなー」

だるそう。いつも通りの声。
もはや、営業エリアまで来るのもめんどくさいらしい。ドアのところでしゃべっている。

「…はーい」

ほんの少しだけ遅れて返す。
バッグを肩にかけて小走りで追いついた。

「じゃ、行くぞ」

高橋さんはそれだけ言って、もう歩き出している。

「ちょっと待ってください!」

慌てて追いかける。相変わらず速い歩幅。けれど。

「高橋さん?忘れたんですか?」

試すようにそう尋ねると、彼は不思議そうに少しだけ振り返る。

「…なに?」

「ちゃんと合わせてください」

一瞬なにかを思い出そうと視線を泳がせたあと、すぐにここへ着地した。

「…ああ」

理解したらしく、ほんのわずかに歩く速度が落ちた。その隣に並ぶ。
それだけのことなのに、不思議と息が整う。


「今日は、三件です」

「多いな」

短い会話。それで十分だった。
言葉を探さなくても、自然に流れる。
噛み合う、というより、引っかからない。


少し前まであった、ほんの少しのズレが、どこにも見当たらない。
私はもう前を向いていた。



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