君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 そして、ある日、ついにその時が訪れた。
 彼女の脳からの命令は、完全に右手の指先へ届かなくなり、彼女は筆を握れなくなった。
 その日の部室の光景を、凌は今でも鮮明に覚えている。
 碧南は何も言わなかった。涙ひとつ流さず、声を荒げて怒りもしなかった。ただ静かに、本当に静かに、ピクリとも動かなくなった自分の不自由な右手を見つめていた。
 夕闇に沈む美術室の中、完全に光を失った彼女のあの横顔だけが、今も凌の脳裏に焼き付いて離れない。

「……くそっ」

 過去の記憶を振り払うように、鉛筆を握る指へ烈しい力が加わる。ブツリと芯が折れ、紙に黒黒とした歪な線が深く刻まれた。
 激しい突風が吹き抜ける。ページがぱらりと捲れそうになり、凌は剥き出しの左手で慌ててそれを押さえた。
 見上げた視線の先には、何処までも高い冬隣の青空が広がっている。
 あの日と何も変わらない、冷たくて美しい空。けれど、それを誰よりも愛し、描いていた人だけが、ここにはいない。
 凌は、描きかけのスケッチに視線を戻した。
 ただの青空だ。技術的には、コンテストで賞を取った時よりもずっと洗練されているはずだった。それなのに、何処か致命的に物足りない。何かが決定的に足りない。
 ずっと、胸の奥に冷たい穴が空いたような感覚が続いていた。
 ふと、脳裏にあの日の碧南の透き通った声が蘇る。

『頭の上で毎秒ごとに移り変わる青空を、全部絵にしたいんだ』

 最初に聞いた時は、なんて子供じみた、馬鹿みたいな夢だと思った。一瞬ごとに形を変える世界を全て切り取るなんて、人間にできるはずがないと。
 けれど、誰よりも本気で、それこそ命が尽きるその瞬間までその世界の美しさを信じ、願っていた人を凌は知っている。
 凌はバタンと音を立ててスケッチブックを閉じた。
 そして、もう一度真っ直ぐに空を見上げる。
 青い。ただそれだけで、地上を置いてきぼりにするような冷たい空。
 だけど、今の凌には少しだけ分かる気がした。碧南が命を懸けて見ていたものが。
 かつて春原澄朱華がそのキャンバスに描こうとしていた世界の全てが。
 ほんの少しだけ、本当に爪の先ほどだけれど、彼らの領域に近づけた気がした。

「……まだだな。全然、届かねぇ」

 小さく呟いた言葉に、自嘲や諦めの色は一切なかった。それは、自らの現在地を測るための、ただの事実だった。
 自分はまだ、あの人が見た景色の半分にも届いていない。
 だから、描くのだ。
 何枚でも、何百枚でも、何千枚でも。
 彼女の手から滑り落ち、奪われてしまったあの筆を、今度は自分が代わりに強く握り締めて。
 彼女が描けなくなってしまったその先の世界を。彼女が死ぬまでに見たかったはずの全ての美しい景色を。
 そして――彼女の中にだけあった、あの優しくて寂しい『青空』の続きをこの手で形にするために。
 ヒュウと、冷たい風が遮るもののない屋上を吹き抜けていく。
 誰もいない孤独な世界の中心で。
 凌は再び力強くスケッチブックを開くと、新しい鉛筆の先を紙へと落とし、迷いのない速度で、再び激しく走らせ始めた。
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