君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
鉛筆の先が白い紙の上を激しく走る。
かりかり、かりかりと、静まり返った屋上に乾いた音だけが規則正しく響いていた。
冷たい風が吹き抜けるたびにスケッチブックの端がバタバタと頼りなく揺れる。その度に、凌は無意識に強く掌でそれを押さえつけた。
今、凌が描き殴っているのは空だった。
けれど、ただの風景としての空ではない。
以前の凌であれば、絶対に気づくことすらできなかっただろう。
今、自分がキャンバスや紙の上に必死で定着させようとしているのは、ただの青空そのものなどではないのだ。
その空を見上げた、大切な人の記憶。
その空の下で、確かに交わされた不器用な言葉。
そして――その果てしない青に託された、命がけの願い。
かつて碧南がそうであったように。その始まりである澄朱華がそうであったように。
絵という表現の本質は、風景という形を借りて、結局は『人間』そのものを描き出すためのものなのかもしれない。
「……まぁ、よく分かんねぇけど」
喉の奥から、自嘲混じりの苦笑が漏れる。
昔の自分なら、こんな大層なこと、考えもしなかった。
凌にとって絵なんてただの退屈な暇潰しだったし、美術部なんて面倒なだけの義務的な居場所だった。
コンテストの賞なんてどうでもよくて、誰かに何かを伝えるなんて発想すら持ち合わせていなかった。
なのに、今はどうだ。
気づけば二十四時間、頭の中は絵のことばかりで埋め尽くされている。
退屈な授業中も、ガタゴトと揺れる帰りの電車の中でも、夜、冷たい布団へ潜り込んで目を閉じてからも。
自分がこれから描くべき、そしてあの人に届けなければならない景色が、どうしても頭から離れてくれないのだ。
――ブブブ、ブブブブ。
その時、不意にポケットの中でスマホが短く震えた。
凌はピタリと鉛筆を握る手を止める。
取り出したスマートフォンの液晶画面を見ると、メッセージアプリからの短い通知が来ていた。
『碧南』
そこに表示された送り主の名前を目にした瞬間、凌の切れ上がった瞳が、僅かに優しく細められる。
届いたのは、驚くほど短い文章だった。
『今日の空、見た?』
ただ、それだけ。
凌は促されるようにして、ゆっくりとスマホから空へ視線を上げた。
頭上には、千切れたような薄い雲がゆっくりと流れている。
それは、もうすぐ訪れる厳しい冬の気配を告げるような、何処までも高くて冷徹な空だった。一見すれば、何の変哲もない、いつも通りのありふれた景色。
けれど、あの日筆を奪われたあの人は、きっとこの同じ空を見て、全く違うものを感じ取っているのだろう。
どれだけ病魔に未来を削られても。右手が完全に動かなくなり、二度と筆が握れなくなってしまっても。
彼女は世界を見ることだけは、空を愛することだけはやめなかった。否、やめられなかったのかもしれない。
それが、彼女が生きているという証明そのものだからだ。
かりかり、かりかりと、静まり返った屋上に乾いた音だけが規則正しく響いていた。
冷たい風が吹き抜けるたびにスケッチブックの端がバタバタと頼りなく揺れる。その度に、凌は無意識に強く掌でそれを押さえつけた。
今、凌が描き殴っているのは空だった。
けれど、ただの風景としての空ではない。
以前の凌であれば、絶対に気づくことすらできなかっただろう。
今、自分がキャンバスや紙の上に必死で定着させようとしているのは、ただの青空そのものなどではないのだ。
その空を見上げた、大切な人の記憶。
その空の下で、確かに交わされた不器用な言葉。
そして――その果てしない青に託された、命がけの願い。
かつて碧南がそうであったように。その始まりである澄朱華がそうであったように。
絵という表現の本質は、風景という形を借りて、結局は『人間』そのものを描き出すためのものなのかもしれない。
「……まぁ、よく分かんねぇけど」
喉の奥から、自嘲混じりの苦笑が漏れる。
昔の自分なら、こんな大層なこと、考えもしなかった。
凌にとって絵なんてただの退屈な暇潰しだったし、美術部なんて面倒なだけの義務的な居場所だった。
コンテストの賞なんてどうでもよくて、誰かに何かを伝えるなんて発想すら持ち合わせていなかった。
なのに、今はどうだ。
気づけば二十四時間、頭の中は絵のことばかりで埋め尽くされている。
退屈な授業中も、ガタゴトと揺れる帰りの電車の中でも、夜、冷たい布団へ潜り込んで目を閉じてからも。
自分がこれから描くべき、そしてあの人に届けなければならない景色が、どうしても頭から離れてくれないのだ。
――ブブブ、ブブブブ。
その時、不意にポケットの中でスマホが短く震えた。
凌はピタリと鉛筆を握る手を止める。
取り出したスマートフォンの液晶画面を見ると、メッセージアプリからの短い通知が来ていた。
『碧南』
そこに表示された送り主の名前を目にした瞬間、凌の切れ上がった瞳が、僅かに優しく細められる。
届いたのは、驚くほど短い文章だった。
『今日の空、見た?』
ただ、それだけ。
凌は促されるようにして、ゆっくりとスマホから空へ視線を上げた。
頭上には、千切れたような薄い雲がゆっくりと流れている。
それは、もうすぐ訪れる厳しい冬の気配を告げるような、何処までも高くて冷徹な空だった。一見すれば、何の変哲もない、いつも通りのありふれた景色。
けれど、あの日筆を奪われたあの人は、きっとこの同じ空を見て、全く違うものを感じ取っているのだろう。
どれだけ病魔に未来を削られても。右手が完全に動かなくなり、二度と筆が握れなくなってしまっても。
彼女は世界を見ることだけは、空を愛することだけはやめなかった。否、やめられなかったのかもしれない。
それが、彼女が生きているという証明そのものだからだ。