君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 冬の空は、何処までも高く、何処までも澄んでいる。
 あの日、彼女の手から筆が落ちた日から、もう何十枚も、何百枚も同じ景色を描いてきた。それでもまだ、指先が追いつかない。
 描けば描くほど、自分が世界の美しさを、あの人が見つめていた深淵を、何一つ分かっていなかったのだと思い知らされる。

(……あいつ、今も見てんのかな)

 そう考えた、まさにその瞬間だった。
 机の奥、忍ばせていたスマートフォンが、ブブッ、と短く震えた。マナーモードの微固な振動が、太ももを通じて伝わってくる。
 凌は教師の視線を盗みながら、教科書の影でそっと画面を確認した。
 通知は、一件。
 ロック画面に表示された送り主の名前を見た瞬間、凌の瞳が僅かに揺れる。

『碧南』

 メッセージは、昨日と同じように短かった。

『今日の空、描いた?』

 それだけ。たったそれだけの文字列なのに、凌の視線は再び吸い寄せられるように窓の外の青へと向かった。
 千切れた白い雲が、冷たい風に流されていく。冬の陽射しが校舎の無機質な壁を白く照らしている。
 何も変わらない空。けれど、その手から全てを奪われ、変わってしまった人。
 そして、その人によって、半年前とは似ても似つかない場所へ変わり続けている、自分。
 凌は机の下でスマホを握り直し、返信欄を開いた。少しだけ指を止め、迷った末に、いつも通りの不器用な言葉を打ち込む。

『今描いてる』

 送信ボタンを押すと、数秒と経たずに『既読』の二文字が灯った。
 そして、すぐに返ってきたのは、

『そっか』

 それだけだった。
 以前の凌なら、「なんだよそれ」と突っぱねて会話を終わらせていただろう。けれど、今の凌には、その、たった二文字の向こう側が透けて見えるようだった。
 彼女が今、どんな寂しさを抱えて空を見上げているのか。
 どんな祈りを込めて、もう自由に動かない左手でこの言葉を紡ぎ、自分に送ってきたのか。
 ほんの少しだけ。本当に、爪の先ほどだけれど、分かる気がした。
 凌はスマホの電源を切り、制服のポケットの奥深くへと仕舞い込んだ。
 そして、三度、窓の外を見る。
 冬空は今日も残酷なほど高かった。
 手を伸ばしても、決して届かない場所にある。
 だけど――だからこそ、この命を削ってでも、一生をかけて追いかけ続ける価値がある。
 冷たい風が窓ガラスを小さく鳴らす教室の中で、藤代凌は、静かにノートを開いて授業を受けるふりをした。
 その胸の奥底に、あの人が遺した、決して消えない鮮烈な青をしっかりと抱き締めながら。








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