君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
碧南の目の前まで歩み寄った凌は、改めてその姿を視界に収め、言葉を失った。
以前よりも明らかに薄くなってしまった身体。
何処か血の気の引いた、青白い肌。そ
して何より、彼女の細い膝の横に、ごく自然な様子で立て掛けられていた一本のアルミニウム製の杖。
それらが突きつける残酷な現実に、凌の胸の奥が小さく悲鳴を上げるように軋んだ。
けれど、凌は同情や憐れみを嫌う彼女のプライドを知っていたから、何も言わなかった。代わりに、いつも通りのぶっきらぼうな声を投げかける。
「で」
碧南が、小さく小首を傾げた。
「何処行くんだよ。目的くらい教えろ」
その問いに、碧南は困ったように眉を下げて笑った。
まるで幼い子供が、とっておきの悪戯を背中に隠している時のような表情だった。
「秘密」
「またかよ」
「いいから。付いて来て」
そう言って彼女は、冬の冷たい空気を小さく吸い込み、吐き出した。それから、ほんの少しだけ視線を足元へと伏せる。
「今日だけ……」
消え入りそうな、静かな声だった。
「今日だけでいいから、私の我が儘に付き合ってほしいな、凌」
その真っ直ぐな言葉に、凌は何も返せなかった。
いつもなら「面倒くせぇ」とか「説明しろ」とか、そんな文句の一つや二つは確実に吐き捨てていただろう。
けれど、目の前にいる今にも冬の光に溶けてしまいそうな彼女に、そんな棘のある言葉を向ける気にはどうしてもなれなかった。
「……分かったよ」
短く、折れるように答える。
すると碧南は、心底嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう」
そう言って、彼女は長椅子から立ち上がろうとした。
だが――その一連の動作は、凌が予想していたよりも遥かに危うく、痛々しいものだった。
重心が定まらず、身体が僅かに左右に揺れる。細い腕が、震えながら杖のグリップへと全体重を預けた。
一歩。そして、もう一歩。引き摺るように、ゆっくりと足を前へ運ぶ。
その姿を見た瞬間、凌の表情から完全に色が消えた。
知っていたはずだった。病気が確実に進行していることも、学校へ来られなくなった理由も、あの天才的な筆が握れなくなったことも。文字としては、知識としては全部知っていた。
けれど、「知っている」ことと、「目の前で現実を見る」ことは、全く違った。
かつて、屋上のフェンスへ軽々と寄り掛かり、誰よりも不敵に笑っていた少女。
誰よりも自由な色彩で、世界の全てを置き去りにするような空を描いていた、あの圧倒的な画家。
その面影は、今の彼女の何処にもない。
目の前にいるのは、一本の冷たい杖がなければ、満足に歩くことすら難しい小さな一人の少女だった。
「……っ」
不意に、碧南の身体が不自然に傾いた。
床のタイルとタイルの間にある、ほんの数ミリの小さな段差。ただ、それだけだった。
けれど、いまの彼女にはその僅かな高さを超えるほどに足が上がらなかったのだ。
「危ねぇ……っ」
考えるより先に、身体が弾かれたように動いていた。
凌は咄嗟に長い腕を伸ばし、倒れかけた彼女の華奢な身体を横から強く抱き留める。
以前よりも明らかに薄くなってしまった身体。
何処か血の気の引いた、青白い肌。そ
して何より、彼女の細い膝の横に、ごく自然な様子で立て掛けられていた一本のアルミニウム製の杖。
それらが突きつける残酷な現実に、凌の胸の奥が小さく悲鳴を上げるように軋んだ。
けれど、凌は同情や憐れみを嫌う彼女のプライドを知っていたから、何も言わなかった。代わりに、いつも通りのぶっきらぼうな声を投げかける。
「で」
碧南が、小さく小首を傾げた。
「何処行くんだよ。目的くらい教えろ」
その問いに、碧南は困ったように眉を下げて笑った。
まるで幼い子供が、とっておきの悪戯を背中に隠している時のような表情だった。
「秘密」
「またかよ」
「いいから。付いて来て」
そう言って彼女は、冬の冷たい空気を小さく吸い込み、吐き出した。それから、ほんの少しだけ視線を足元へと伏せる。
「今日だけ……」
消え入りそうな、静かな声だった。
「今日だけでいいから、私の我が儘に付き合ってほしいな、凌」
その真っ直ぐな言葉に、凌は何も返せなかった。
いつもなら「面倒くせぇ」とか「説明しろ」とか、そんな文句の一つや二つは確実に吐き捨てていただろう。
けれど、目の前にいる今にも冬の光に溶けてしまいそうな彼女に、そんな棘のある言葉を向ける気にはどうしてもなれなかった。
「……分かったよ」
短く、折れるように答える。
すると碧南は、心底嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう」
そう言って、彼女は長椅子から立ち上がろうとした。
だが――その一連の動作は、凌が予想していたよりも遥かに危うく、痛々しいものだった。
重心が定まらず、身体が僅かに左右に揺れる。細い腕が、震えながら杖のグリップへと全体重を預けた。
一歩。そして、もう一歩。引き摺るように、ゆっくりと足を前へ運ぶ。
その姿を見た瞬間、凌の表情から完全に色が消えた。
知っていたはずだった。病気が確実に進行していることも、学校へ来られなくなった理由も、あの天才的な筆が握れなくなったことも。文字としては、知識としては全部知っていた。
けれど、「知っている」ことと、「目の前で現実を見る」ことは、全く違った。
かつて、屋上のフェンスへ軽々と寄り掛かり、誰よりも不敵に笑っていた少女。
誰よりも自由な色彩で、世界の全てを置き去りにするような空を描いていた、あの圧倒的な画家。
その面影は、今の彼女の何処にもない。
目の前にいるのは、一本の冷たい杖がなければ、満足に歩くことすら難しい小さな一人の少女だった。
「……っ」
不意に、碧南の身体が不自然に傾いた。
床のタイルとタイルの間にある、ほんの数ミリの小さな段差。ただ、それだけだった。
けれど、いまの彼女にはその僅かな高さを超えるほどに足が上がらなかったのだ。
「危ねぇ……っ」
考えるより先に、身体が弾かれたように動いていた。
凌は咄嗟に長い腕を伸ばし、倒れかけた彼女の華奢な身体を横から強く抱き留める。