君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 至近距離で突き刺さる、氷のように冷たい視線。
 あまりの豹変ぶりに、凌は呼吸をすることさえ忘れたように目を丸くし、完全に硬直していた。
 頬を掴む紫の指先から、彼女の並々ならぬ「絵」への執念のようなものが、皮膚を通して直接流れ込んでくる気がした。

「どれだけ才能がある人でもね、基礎という器がなければ、何も受け止めきれないまま全部溢してしまうの」

 紫の低く、静かな声が、誰もいない部室に冷徹に響く。

「逆に言えばね。才能なんて最初から無くても、器さえ綺麗に揃っていれば絵なんて誰にでも描ける。……器っていうのはね、その物事に対する『好き』っていう強い想いでできているんだから」

 その言葉は、技術がないと言い訳をして逃げていた凌の胸の奥底へ、鋭い楔のように打ち込まれた。

 ――想いがあれば、器ができる。

 自分には、あの屋上の少女のように、世界を青く塗り潰せるほどの強い想いがあるのだろうか。
 凌がその言葉の意味を必死に咀嚼しようとした瞬間、ふっと頬の圧迫感が消えた。
 紫がゆっくりと両手を離し、自分の椅子へと引き戻していく。それと同時に、彼女の瞳に宿っていた冷たい冬のような光は嘘のように消え去り、そこにはいつもの春の陽だまりのような柔らかい微笑みが戻っていた。
 狐につままれたような思いで、凌は自分の頬を手のひらでそっと擦る。まだ、彼女の指の冷たさが残っているようだった。

「ふふ、ごめんね。ちょっと脅しちゃった」

 紫はそう言って、再び椅子の背もたれに顎を乗せると、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。

「それにしてもさ……凌君って結構大胆な所あるでしょう」
「な、なんすか藪から棒に」

 急な話題の転換に付いていけず、凌は上擦った声で聞き返す。
 すると紫は、全てをあらかじめ知っていたかのように、にんまりと不敵な笑みを浮かべた。

「もしかしなくてもさ、昼休みの屋上で、あの子に“絵を教えてほしい”なんてこと、言っちゃったんじゃない?」
「――ッ!?」

 心臓が、今日一番の大きさでドクンと跳ねた。
 あまりにも正確に言い当てられ、凌の口から言葉が消える。
 確かに、あの場には自分とあの少女の二人しかいなかったはずだ。紫がそれを見ているはずもない。
 窓の外からは、遠くで活動する運動部のホイッスルの音や、下校していく生徒達の微かな話し声が聞こえてくる。
 けれど、オレンジ色の西日に満たされたこの美術部の中だけは、まるで時間の流れが凝固してしまったかのように静かだった。
 手元にある『青空の絵』、目の前で微笑む底の知れない部長、そして、屋上で出会った不機嫌な少女。
 全ての奇妙な縁が、この夕闇の部室の中で、ゆっくりと、けれど確実に凌を巻き込んでいく。
 二人の間に流れる不思議な空気の中で、凌はただ、差し込む夕日に目を細めることしかできなかった。
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