君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
代わりに彼女の顔に浮かんだのは、今まで見たこともないような、深く、苦々しい表情だった。
奥歯を噛み締めるようにして、紫は視線を微かに落とす。
「……それは、私から答えるべきことじゃない」
低く、ひどく重い声音だった。
「なんでっすか!?」
思わず身を乗り出して、凌は声を荒らげた。
後少しで核心に触れられるはずだったのだ。ここまできて先を知るのはお預けなど我慢できない。
「先輩は知ってるんですよね? あの人が誰で、何に苦しんでるのか。だったら、教えてくれたっていいじゃないすか! 俺、あの人に――」
「凌君」
紫の静かな声が、凌の言葉を遮った。
彼女はゆっくりと椅子から立ち上がると、差し込む西日の光を背に負うようにして、凌の前に佇んだ。
逆光になって彼女の表情はよく見えない。けれど、その佇まいには、部外者を容易に立ち入らせないような、美術部部長としての、そして彼女の『友人』としての頑なな一線が引かれていた。
「他人が勝手に語っていい傷じゃないの。あの子の物語は、あの子だけのものだから」
冷たい突き放しではなく、それは祈りにも似た拒絶だった。
何も言えなくなり、凌はぐっと拳を握り締める。
夕暮れの部室に、再び重苦しい静寂が満ちていく。
カチ、カチ、と壁の時計が刻む音だけが、やけに大きく響いていた。
沈黙に耐えかねて凌が俯きかけた、その時。
紫は小さく息を吐き出し、トントン、と凌の持つ絵の木枠を指先で叩いた。
「……どうしても知りたいなら、また明日、屋上に行きなさい」
「え?」
顔を上げた凌に、紫は少しだけ表情を和らげて言った。
「そこであの子に、こう言うの。――“貴方の右手にして”ってね」
「……貴方の、右手?」
聞き慣れない、そして意味の分からない単語に、凌は思わず首を傾げた。
奴隷にでもなれということだろうか、それとも何かのアトリエの隠語か。
「そう。あの子がその言葉をどう受け止めるかは、あの子次第。でもね、もし凌君が本気であの子に絵を教えてほしいなら、その覚悟があるなら……それしか道は無いよ」
紫はそれだけ言うと、今度こそ本当に話を終わりにするように、凌の手から『青空の絵』をそっと引き抜いた。
それを愛おしそうに抱え直すと、彼女は美術室の奥へと歩いていく。
「さ、もう完全下校の時間。今日はここまで。また明日ね、原石君」
背中を向けたまま、紫がひらひらと手を振る。
凌はしばらく動くことができなかった。
夕日に赤く染まった美術室の中で、彼女が残した奇妙なフレーズが、頭の中で何度も何度もリフレインしていた。
『貴方の右手にして』
その言葉が持つ本当の意味を、この時の凌はまだ、何も知らなかった。けれど、胸の奥の鼓動は不思議と高鳴る。
カバンを肩にかけ、誰もいない廊下へと歩き出す。
窓の外には、あの少女が描いたものと同じ、けれど少しずつ夜の闇に溶け込んでいく、深い青色の空が広がっていた。
奥歯を噛み締めるようにして、紫は視線を微かに落とす。
「……それは、私から答えるべきことじゃない」
低く、ひどく重い声音だった。
「なんでっすか!?」
思わず身を乗り出して、凌は声を荒らげた。
後少しで核心に触れられるはずだったのだ。ここまできて先を知るのはお預けなど我慢できない。
「先輩は知ってるんですよね? あの人が誰で、何に苦しんでるのか。だったら、教えてくれたっていいじゃないすか! 俺、あの人に――」
「凌君」
紫の静かな声が、凌の言葉を遮った。
彼女はゆっくりと椅子から立ち上がると、差し込む西日の光を背に負うようにして、凌の前に佇んだ。
逆光になって彼女の表情はよく見えない。けれど、その佇まいには、部外者を容易に立ち入らせないような、美術部部長としての、そして彼女の『友人』としての頑なな一線が引かれていた。
「他人が勝手に語っていい傷じゃないの。あの子の物語は、あの子だけのものだから」
冷たい突き放しではなく、それは祈りにも似た拒絶だった。
何も言えなくなり、凌はぐっと拳を握り締める。
夕暮れの部室に、再び重苦しい静寂が満ちていく。
カチ、カチ、と壁の時計が刻む音だけが、やけに大きく響いていた。
沈黙に耐えかねて凌が俯きかけた、その時。
紫は小さく息を吐き出し、トントン、と凌の持つ絵の木枠を指先で叩いた。
「……どうしても知りたいなら、また明日、屋上に行きなさい」
「え?」
顔を上げた凌に、紫は少しだけ表情を和らげて言った。
「そこであの子に、こう言うの。――“貴方の右手にして”ってね」
「……貴方の、右手?」
聞き慣れない、そして意味の分からない単語に、凌は思わず首を傾げた。
奴隷にでもなれということだろうか、それとも何かのアトリエの隠語か。
「そう。あの子がその言葉をどう受け止めるかは、あの子次第。でもね、もし凌君が本気であの子に絵を教えてほしいなら、その覚悟があるなら……それしか道は無いよ」
紫はそれだけ言うと、今度こそ本当に話を終わりにするように、凌の手から『青空の絵』をそっと引き抜いた。
それを愛おしそうに抱え直すと、彼女は美術室の奥へと歩いていく。
「さ、もう完全下校の時間。今日はここまで。また明日ね、原石君」
背中を向けたまま、紫がひらひらと手を振る。
凌はしばらく動くことができなかった。
夕日に赤く染まった美術室の中で、彼女が残した奇妙なフレーズが、頭の中で何度も何度もリフレインしていた。
『貴方の右手にして』
その言葉が持つ本当の意味を、この時の凌はまだ、何も知らなかった。けれど、胸の奥の鼓動は不思議と高鳴る。
カバンを肩にかけ、誰もいない廊下へと歩き出す。
窓の外には、あの少女が描いたものと同じ、けれど少しずつ夜の闇に溶け込んでいく、深い青色の空が広がっていた。