君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
橙色の西日と冷たい風が、混沌と入り混じる屋上。
紫は、散らばる紙切れを小さな靴で踏まないように気をつけながら、座り込んで絵を描き続ける少女の真横へと歩み寄った。
ゴォと吹き抜ける突風に、自身の長い髪が視界を遮るのを、白衣の袖から覗く白い手で静かに抑える。
その口元には、何処か遠い日を懐かしむような、微かな笑みが浮かんでいた。
「凌君が、貴方の絵を見てなんて言ったか知ってる?」
紫の問いかけに、少女の右手が僅かにブレた。けれど、彼女は視線をキャンバスから外そうとはしない。
「……知らない。どうでもいいよ、そんなこと」
冷たく突き放すような声。けれどそこには、先ほど凌に向けたような狂気的な激昂はなく、ただ自らの殻に閉じこもろうとする頑なな拒絶だけが残っていた。
「そう言わないで」
紫はしゃがみ込み、少女の目線に合わせるようにして顔を覗き込んだ。
「あの子ね、本当にすっごい熱心に、あなたが描いたあの青空を見ていたんだよ。隣にいた私が、思わず話し掛けにくいって感じちゃうくらいにね。魂を奪われたみたいに、じっと、ずうっと」
「どうせ、あの絵も失敗作だった」
少女は遮るように、自分自身に言い聞かせるように、吐き捨てるように言った。その声が微かに震える。
「色彩のバランスも、線の引き方も、私の頭の中にある本物の空には遠く及ばない。思い通りに動かない右手で描いた、ただの出来損ない……。私にとっては、そこに転がってる塵と同じなの。何も、残せなかった」
「でもね」
紫は優しく、けれど遮らせない強さを持って言葉を紡いだ。
「凌君には、誰が描いたのか気になって仕方がなくなるくらい、“綺麗”な絵に見えたみたいだよ。貴方の絶望も、焦燥も、その右手の苦しみも、あの子はまだ何も知らない。それでもね、碧南。あの子の真っ直ぐな感性なら、貴方が絵に込めた、叫び出すような『想い』をちゃんと汲み取れる」
紫のヘーゼル色の瞳が、夕日を浴びて強く輝く。
「技術を教えるだけなら私にでもできる。でも、原石である凌君を、本当の宝石に変えられるのは……世界をあの青に変えられるのは、貴方だけよ」
その名前が呼ばれた瞬間、屋上の空気がピきりと凍りついた。
碧南は、動かしていた右手を完全に止めた。
ゆっくりと顔を上げ、紫を見上げるようにして、その大きな瞳で真っ直ぐに睨みつける。
「“あの人”を追いかけるも目指すも貴方の好きにすれば良い。でも、追いかけると決めた理由を見失っちゃ、元も子もないでしょう?」
そこには、親友でありライバルでもある紫への、複雑に入り混じった感情が渦巻いていた。
やがて、碧南は諦めたように小さく息を吐き出すと、固く握りしめていた筆を、傍らのパレットの上にカランと音を立てて置いた。
何種類もの「青」が混ざり合う泥濘の上に、筆が静かに横たわる。
そして、彼女は膝の上のスケッチブックを、パタンと強い音を立てて閉じた。
それは、彼女が初めて、凌という存在と、自らの閉ざされた未来に向き合うことを決めた、静かな意思の音だった。
紫は、散らばる紙切れを小さな靴で踏まないように気をつけながら、座り込んで絵を描き続ける少女の真横へと歩み寄った。
ゴォと吹き抜ける突風に、自身の長い髪が視界を遮るのを、白衣の袖から覗く白い手で静かに抑える。
その口元には、何処か遠い日を懐かしむような、微かな笑みが浮かんでいた。
「凌君が、貴方の絵を見てなんて言ったか知ってる?」
紫の問いかけに、少女の右手が僅かにブレた。けれど、彼女は視線をキャンバスから外そうとはしない。
「……知らない。どうでもいいよ、そんなこと」
冷たく突き放すような声。けれどそこには、先ほど凌に向けたような狂気的な激昂はなく、ただ自らの殻に閉じこもろうとする頑なな拒絶だけが残っていた。
「そう言わないで」
紫はしゃがみ込み、少女の目線に合わせるようにして顔を覗き込んだ。
「あの子ね、本当にすっごい熱心に、あなたが描いたあの青空を見ていたんだよ。隣にいた私が、思わず話し掛けにくいって感じちゃうくらいにね。魂を奪われたみたいに、じっと、ずうっと」
「どうせ、あの絵も失敗作だった」
少女は遮るように、自分自身に言い聞かせるように、吐き捨てるように言った。その声が微かに震える。
「色彩のバランスも、線の引き方も、私の頭の中にある本物の空には遠く及ばない。思い通りに動かない右手で描いた、ただの出来損ない……。私にとっては、そこに転がってる塵と同じなの。何も、残せなかった」
「でもね」
紫は優しく、けれど遮らせない強さを持って言葉を紡いだ。
「凌君には、誰が描いたのか気になって仕方がなくなるくらい、“綺麗”な絵に見えたみたいだよ。貴方の絶望も、焦燥も、その右手の苦しみも、あの子はまだ何も知らない。それでもね、碧南。あの子の真っ直ぐな感性なら、貴方が絵に込めた、叫び出すような『想い』をちゃんと汲み取れる」
紫のヘーゼル色の瞳が、夕日を浴びて強く輝く。
「技術を教えるだけなら私にでもできる。でも、原石である凌君を、本当の宝石に変えられるのは……世界をあの青に変えられるのは、貴方だけよ」
その名前が呼ばれた瞬間、屋上の空気がピきりと凍りついた。
碧南は、動かしていた右手を完全に止めた。
ゆっくりと顔を上げ、紫を見上げるようにして、その大きな瞳で真っ直ぐに睨みつける。
「“あの人”を追いかけるも目指すも貴方の好きにすれば良い。でも、追いかけると決めた理由を見失っちゃ、元も子もないでしょう?」
そこには、親友でありライバルでもある紫への、複雑に入り混じった感情が渦巻いていた。
やがて、碧南は諦めたように小さく息を吐き出すと、固く握りしめていた筆を、傍らのパレットの上にカランと音を立てて置いた。
何種類もの「青」が混ざり合う泥濘の上に、筆が静かに横たわる。
そして、彼女は膝の上のスケッチブックを、パタンと強い音を立てて閉じた。
それは、彼女が初めて、凌という存在と、自らの閉ざされた未来に向き合うことを決めた、静かな意思の音だった。