君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
時を少しだけ巻き戻す――。
橙色に染まる屋上で紫が彼女と対峙する、ほんの数十分前のこと。
放課後の部室。ガラガラと重い音を立てて引き戸が開いた。
そこに立っていたのは、凌だった。
けれど、その姿はいつもの彼とは明らかに違う。左手でひどくくたびれた一枚の紙を強く握り締め、部室の中へ入ろうとしない。
敷居の手前でただ俯いて立ち尽くすその肩は、小さく震えていた。
部室の奥でキャンバスに向かっていた紫は、その異様な気配にいち早く気がついた。
「どうしたの? 忘れ物でもした?」
紫はすぐに筆を置くと、椅子から立ち上がり、おろおろと立ち尽くす凌の元へと足早に駆け寄った。
近づくにつれ、凌の顔が驚くほど蒼白になっているのが見て取れる。
「そうじゃなくて……持ってきたんすよ。入部届」
凌は顔を上げないまま、ぽつりと呟いた。そして、左手に握られていたものを、すっと紫の前へと差し出す。
それは、何度も強く握り締め、一度完全に丸められたものを無理やり引き伸ばしたかのような、ぐしゃぐしゃの入部届だった。
白い紙には無数の深い皺が刻まれ、何より、その紙を持つ凌の手は、異常なまでにガタガタと震え続けていた。
「え……?」
いつも余裕を崩さない紫の瞳に、明らかな動揺が走った。
目の前の一枚の紙が、ただごとではない修羅場を潜り抜けてきたことを物語っている。
紫は戸惑いを隠せないまま、その皺だらけの入部届をそっと両手で受け取った。
「じゃあ、俺はこれで」
紙が紫の手に渡ったのを確認すると、凌はすぐに踵を返し、黙ってその場を去ろうとした。
その足取りはひどく重く、今にも崩れ落ちそうなほどに危うい。
「ちょ、ちょっと待って!」
紫は慌てて手を伸ばし、遠ざかろうとする凌の制服の腕をぐっと掴んだ。
凌の身体がびくりと跳ね、振り返りはしないものの、その場でピタリと立ち止まる。
「何かあったんでしょう。これから先輩になる身として、そんな顔をしている後輩を黙って帰すわけにはいかないよ。……全部じゃなくていいから。何があったのか、私に教えて?」
紫の声には、いつものお調子者のトーンは一切なかった。真剣に、心から凌を心配する痛切な響きが含まれている。
けれど、「教えて」というその言葉が、凌の胸の奥で燻っていた導火線に、最悪のタイミングで火をつけてしまった。
「……綾瀬先輩って」
凌の口から、地を這うような、ひどく冷えた声が漏れ出た。
腕を掴まれたまま、俯いた頭をさらに深く沈め、拳を血が滲むほどに強く握りしめる。
「“教えて”って言ったら、何でも教えてもらえると思ってますよね」
「……どういうこと?」
紫の表情が、不審さと困惑で歪んだ。
次の瞬間、凌の堰を切ったような感情が、激しい言葉となって部室全体に爆発した。
「教えてって言われることが、言われ続けることが……どれだけ苦痛なことなのか、俺は何も分かってなかった!!」
凌は叫んでいた。
屋上で見た、あの震える右手。破り捨てられたおぞましいデッサン。
『時間がない』と泣き叫んだ彼女の絶望。
その全てが、自分の浅はかな「教えてください」という言葉によって、どれほど残酷に抉られたか。その事実が、凌の心を狂わせそうに苛んでいた。
「今更、傷つけるつもりなんてなかったって言ったって、もう遅いんだよ……! 俺は、あの人のことを……あの人が命を削って描いてる絵を、ただの好奇心で侮辱したんだ! 俺があの人の、あの綺麗な青空の絵を汚したんだよ!!」
激しい自己嫌悪と後悔の叫び。
凌は狂ったように腕を振り回し、自分の身体を拘束していた紫の手を、力任せに振りほどいた。
バシッ、と激しい音が響く。
凌はそのまま数歩後ろへとよろめきながら下がり、そこで初めて、涙と怒りでぐちゃぐちゃに歪んだ顔を、紫の前へと弾けさせた。