君の手が動く限り、俺は隣にいたいから

「……すんません、こんなの見苦しいだけっすよね。やっぱり、入部するの辞めます」

 凌は自嘲気味に吐き捨てると、先ほど手放したばかりの、紫の手にある入部届へとがむしゃらに手を伸ばした。
 こんな最低な自分に、美術部の一員になる資格なんてあるはずがない。早くこれを回収して、この部屋から、あの人の視界から消え去るべきだ。
 しかし、紫の動きは一瞬早かった。
 凌の手が届く直前、彼女はすっと長い腕を真上へと突き上げ、入部届を高く掲げたのだ。
 その細い指先は、しわくちゃの紙を絶対に離さないと言わんばかりに強く握りしめられている。

「え……っ」

 凌は驚きに目を丸くした。だが、すぐにその驚愕は焦りと怒りへと変わる。

「返せよ!」

 小柄とは言え、凌の方が背丈はある。それなのに、身長差や紫の絶妙な身のこなしに阻まれ、あと数センチのところで空を切り続ける。

「駄目。もう時効だから。今この瞬間、あなたは美術部の部員で、私の後輩になったの」

 紫は掲げた腕を微動だにせず、凛とした、けれど何処か楽しげな声で告げた。

「さっきも言っただろ!  俺はあの人の絵を汚したんだ!  あの人を傷つけたんだよ!  そんな俺が、どの面下げてのうのうと部員になって絵を描くなんざ、できるわけねぇだろ!」

 感情を爆発させ、喉をからして訴える凌。しかし、紫は冷淡なほどにあっさりと、その言葉を切り捨てた。

「関係ない」
「はあ!?」

 あまりの物言いに、凌は跳びはねるのを止め、呆然と紫を見上げた。

「そんなの、絵を描かない理由にならないわ。私にはね、あなたが絵を描きたくないから駄々を捏ねている、ただの言い訳にしか聞こえないけれど?  あの構成員(あの子)を傷つけた?  彼女の描く絵を汚した?  ――笑わせないで。私はね、それ以上にあの子にずっと侮辱され続けてきたわよ。才能が溢れて止まらないあの子と、何の才能も無い私とじゃ、最初から天と地の差があるんだからね」

 紫の言葉には、自虐を超えた、どす黒いほどの現実が混ざっていた。けれど、彼女の瞳は決して濁っていなかった。
 紫は掲げていた腕をゆっくりとおろし、何事もなかったかのように、凌へ向けていつも通りの柔らかな微笑みを浮かべた。

「あの子を傷つけたと思うなら、後悔して逃げ回るんじゃなくて、あの子を救えるくらいの絵を描けるようになればいいじゃない」
「……何言ってんだよ。そんなの、できるわけない。俺には、そんな大層な『器』なんてねぇよ……」

 凌はがっくりと肩を落とし、自分の無力さに打ちひしがれながら呟いた。
 昨日、紫自身が言ったのだ。想いという器がなければ、才能なんて溢れてしまうと。自分には、彼女の絶望を受け止められるような器なんて、これっぽっちも持ち合わせていない。

「ふふ、馬鹿ね。誰だって、一生ずっと同じ器を使い続けるわけじゃないでしょう?  人間はね、その時々で、自分にとって最適な器を選別して生きていくものなの。それに……」

 紫は一歩、凌へと歩み寄ると、自分の両手を丸めて小さな器の形を作ってみせた。

「君にだって、最初から立派な器があるじゃない。――『手』という、最高の器がね」
「手が、器……?」

 予想だにしない言葉に、凌は自分の両手を見つめた。傷つけることしかできなかった、この不器用な両手を。

「そう。手がある限り、その手が動く限り、絵は何度だって描ける。あの子の右手がどうなろうと……君のその手は、まだ何も失っていないでしょう?」

 紫の言葉が、夕闇の部室に静かに染み渡っていく。
 その意味の重さに、凌はただ、息を呑むことしかできなかった。







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